2022年05月01日  基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「きよい律法」 ローマ7:7~13
律法は人を縛り、罪に定める。この事から律法は悪いもの、罪と同じように人を滅ぼすものなのだろうか?その懸念をパウロは断じて否定する。福音書でイエスは、律法を代表するパリサイ人、律法学者を厳しく断罪している。それは宗教的指導者、霊的指導者であるべき彼らがその役割を果たさず、むしろユダヤ人全体を惑わせていたことにある。彼らはユダヤ人全体に大きな影響力を持つ権威を持っていたが、その権威を自分の権威欲、金銭欲を満たすために用いた。神の御心が抜け落ちた形式的な律法で人々を縛りつけた。イエスはご自分の元に押し寄せる群衆を羊飼いのない羊のように深く憐れまれた。パリサイ人たちの中には、イエスの教えと奇跡の力に神の業を認め、イエスを信じる者が多くあったとヨハネの福音書には記されている。しかしパリサイ人を恐れて告白できなかった。パリサイ人、律法学者は人々を惑わすものであった。パリサイ人、律法学者の指導は、行いが罪の判断の基準とされ、心の活動は罪に数えられなかった。だが実際は、心の活動から悪い行いが発展していく。イエスは山上の説教で心の活動について戒めを与えた。心の活動に対する戒めこそが人を罪と向き合わせ、罪から人を解放するため必要な戒めだった。パウロは「隣人のものを欲してはならない」との戒めを十戒の中より示している。この戒めは心の活動に対する戒めである。欲望の種は相手の領域に入り込み、相手の全てを奪う罪へと発展する。神は律法によって欲望を罪と定め禁じている。人の欲望は目に見えるものだけにおこるものではなく、神の領域まで侵す。エバは欲望にかられ、サタンに騙され、神の戒めを破り、自分に与えられた領域から出て神の領域を侵した。この背後にはサタンの巧みな誘惑があり、エバはサタンに騙され神に背いた。人は騙されて罪を犯した。パウロは罪を人格的に語っている。私たちに住み着く罪が神のことばを曲げ、自分の欲望を満たすべく、都合のよいように解釈させる。サタンがエバを騙したように…。「今日と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて、頑なにならないようにしなさい」(ヘブル3:13)。もし人が罪に気づかず歩んでいたなら、滅びは免れなかった。律法は人の心をきよい光で照らす。人はその光に耐えられず死に定められる。しかし、復活されたイエスが私たちの手を力強く握り「生きよ!」と優しい眼差しで抱き起こしてくださる。イエスとともに歩むことを選びとるなら、私たちがどんなに弱くても生涯を通し味方となり、弁護し、闘い抜かせてくださる。罪も死も恐れることはない。イエスが既に打ち勝ってくださっているのだから。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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