2022年3月13日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「深い出会い」マタイ14:30~33
ナザレからエルサレムへの途上、様々な奇跡を示す。四人の男が病人を運び「よーし、屋根を剥がせ!」屋根から病人を吊り下ろす。荒っぽいが彼らの願いは真摯だ。屋根なんか後で修理すればそれで済む。イエスも彼らの友情を感じとっただろう。「起きて歩きなさい」。病人はスタスタと家へ帰って行った。「ウソ!」人々の驚きは大変なものだった。またあるときはローマの百人隊長が「主よ、私の部下が病んで苦しんでいます」と訴えた。権力者が訪ねて来たのだ。良い人柄の男だったろう。「じゃあ、わたしが行って治してあげよう」。「主よ、ひとことお言葉を下されば充分です」。(この男、脈があるぞ)と思ったに違いない。「さあ、帰りなさい。あなたが信じた通りになるように」。ちょうどそのとき、彼の部下の病が治った。だが偉大なイエスにして、故郷ナザレでは力ある業を行えなかった。故郷の反応は「なんだあいつ、偉そうなことを言って、たかが大工のせがれじゃないか。お袋はマリヤで、弟たちもオレよく知ってるぜ。大したもんじゃないよ」。「イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。…それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた」(マルコ6:1、5~6)。奇跡や力ある業は一方的に行われるものではない。与える者と求める者とがなければ虚しい。与える側は全能者であり、神であり、イエスであったとしても、受ける側に信仰の基盤がなければ意味がない。この時代は非常時である。神の力ある業をいただき、この地に御国をつくるときである。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」(マタイ14:31)。与える側は全能者であっても、受ける側は、風を見て恐れをなす人間だ。信じる者だけが神の業を見る。疑えば危うい。「よーし、屋根を剥がせ!」屋根なんか後で修理すればそれで済む。与えんとする者と、求める者との深い出会い。それはおびただしい人間の試行錯誤とつまずきの中で、ただその道を辿り続ける者だけが到達し得る、真の希望への励ましである。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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