2022年1月23日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「かすかな細い声」Ⅰ列王記19:12
エリヤに対するイゼベルの怒りは気も狂わんばかりであった。エリヤは恐れ、闇に乗じて南へ逃げた。「主よ。これ以上逃れることは叶いますまい。私をこの地上から去らせて下さい」。すると、ゴーゴーと音をたて、強い風が渡り始める。竜巻が渦を巻く。(主は激しいお方。この竜巻の中におられるか)と、エリヤは思った。だが主である神は竜巻の中にはおられなかった。すると大地が揺れる。(主はちから強いお方。この地震とともに降り立たれたか)と、エリヤは思った。だが主である神はおられなかった。次に、閃光がひらめき炎となって燃え上がる。(主は輝くお方。炎とともにいます)と、エリヤは思った。だが主である神は炎の中にもおられなかった。ではどこに?何と共に?どんな手段、手立て、方法、やり方で、人間に語りかけ、自らの存在を示されるのか?竜巻が去り、地震が止み、炎が消えると、心地よいそよ風が、すべてのものをいつくしむかのように静かに吹き始めた。音もなく、やさしく…主である神はその静けさ、沈黙の中におられた。どんな人の人生にも〝神なんかあるものか〟と思うときがある。「沈黙の声」。良い言葉だ。「沈黙」とは、何も語らないことではなく、語っている沈黙もあり、私たちがそれを単純に無言と思っているだけだ。〝わが神、わが神、どうしてわたしを、お見捨てになったのですか〟ことば本来の意味が痛ましすぎる。状況もまた痛ましい。その前夜、ゲッセマネの夜。〝できることなら、これを取り去って下さい。でも、わたしの願いではなく、みこころをなさって下さい〟。さらに、ルカだけが記した十字架上の最後の言葉〝わたしの霊を御手に委ねます〟。この言葉は、ゲッセマネの祈りと相通ずる。呼応する。恐怖におののく心、それに続く神への全面的な信頼。ルカだけが記したこの言葉を、あのお方の最後の言葉として聴きたい。実際それが最後の言葉であったかどうか、周囲に聴こえたかどうかの問題ではなく、あのお方の最後の心は、そういう心境であっただろう。〝神なんかあるものか〟の次に、〝神にすべてを委ねよ〟と、沈黙の声は大声で訴える。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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