2021年12月26日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
永遠のいのち ローマ5:12~21
神の愛は、私たちがまだ罪人であったとき、イエスが十字架にかかり、私たちが受けるべき刑罰を、身代わりに受けてくださったことにより明らかにされている。神の偉大な愛と恵みは、人間を支配する最後の敵である「死」さえも支配する。神に創造された最初の人、アダムが神の意思より自分の意思を優先させるという罪を犯したことにより、人と世界に「罪」と「死」が入り込んだ。この一人の人が犯した罪の影響は大変に大きかった。全ての人が死を免れることは出来ない。私たちの周りでは、死に脅かされ、日々病と闘い生きている人が一体どれだけいるのであろう。病院を訪れると、病と死の力が人を支配していることを感じずにはいられない。神に逆らい続ける不義な人間をも深く愛される神は、ご自身が創造された人間が悪魔の意のままに滅びに至らせることを許さなかった。聖書66巻を通して語られる神のメッセージを一言で表す聖書のことばがある。それはヨハネ3章16節である。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。イエスも神の御心を伝えている(ヨハネ6:39~40)。一人の人が犯した罪によって、全ての人が不義により断罪され、死の支配を受けた。神は同じく一人の人を通して罪と死の奴隷となっている人間を解放されることを定められた。その人はイエス・キリストである。その方は人間と同じ血と肉をお持ちになられた。それはご自身の死によって悪魔と死の力を打ち砕くためであった(ヘブル2:14~15)。一人の人として地上に遣わされたイエスは、アダムによってもたらされた罪と死をことごとく粉砕し、ご自身の犠牲を通して神の子どもとされた人を神の御国の相続者とし、永遠のいのちを与え、死の影響力を全く受けない者、死をも支配する圧倒的な勝利者とされる。復活も永遠のいのちも自分のものとして飲み込むには信仰の目が必要だ。私たちは神を信じる者である。神のみことばを頼みとして生きる者である。それならば聖書66巻を通して語られている神の御心と、イエスを通して実現された死の力を打ち砕く復活の御業を、神の約束を、信じないわけにはいかないのではないだろうか。神の御心を知り、神の約束をしっかり握りしめ、永遠に続く世界を信じる者にとって死は永遠に続く未来への通過点にすぎないのである。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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