2021年11月14日  基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「信仰」 ローマ4:17 ~25
神は、力ある御方である。「わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、また、いやす。わたしの手から救い出せる者はいない」(申命記32:39)。新旧約聖書を通し、神はご自身の御力を現した。また、来たるべき未来も、神のご支配のもとに置かれることが約束されている。アブラハムは、自分の前に神を置き、人生を歩んだ。どのような状況にあっても神に信頼し、神のみことばを信じた。神の約束は、人間的には全く希望がない状態を覆す約束だった。年老いたアブラハムと、子を宿す能力が失われたサラとの間に子を与えるとの約束だった。希望というものは、人間の側の考えかたである。アブラハムは、希望のまったく無い状況で、生ける神のことばに望みを置いた。信仰とは神から与えられるものであり、また人が握りしめて信じるものでもある。神のみことばを頂いたなら、人はそれを無視することはできない。するべきではない。信じる闘いを闘い抜かなければならない。アブラハムは、一生懸命神を信じた。神はアブラハムの信仰をご覧になり、それを義と認められた。アブラハムが信仰によって義と認められたのは、私たちのためでもある。イエスが私たちの罪のために死に、神の御力によってよみがえられたと信じることにより、私たちは義と認められるのである。私たちも、ただ信仰によってのみ義と認められる。死者のよみがえり。復活の信仰については、実際、死を間近にしなければ現実味がないかもしれない。コリント人への第二の手紙1:8~10で、パウロは迫害により死を覚悟するほどの危険を体験したとき、自分自身を頼まず、死者をよみがえさせられる神の力により頼むことを学んだと述べている。信仰と迫りくる死の恐怖との苦闘の末、パウロは死者をよみがえらせる神の約束の御言葉に望みをおいたのである。イエスを信じる信仰によって始まった私たちの新しい人生は、神の国を求めて信仰に進ませる旅路を歩む。信仰の闘いを闘い抜いて行きたい。「我、信ず。信仰なき我をあわれみたまえ」と、神にすがりながら。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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