2024年5月5日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「悔い改めよ。神の国は近づいた」マタイ3:1~2
その女に会ってはいけない。不思議な警鐘が鳴っていた。空井戸の底に半裸の男がうずくまっている。ヨハネであり、地の底から断罪の叫びを発している。アンティパス王が兄の妻を奪った。大変な罪悪だ。ヘロデアの方も、「弟さんの方が素敵」と進んで夫を裏切った。ヨハネには許しがたい。「この恋愛は罪悪だ」と叫ぶものだから、「あの男気に入らない。殺してちょうだい」ヨハネは死ぬが、人が死ねば悲劇は深くなる。ヘロデアの連れ子サロメが王の前で踊りを披露し、「褒美をやろう」。母は娘の耳に囁く」「いいのよ。そうしなさい」「では、ヨハネの首をこの場で下さいませ」。凄惨な光景だが、ヨハネへの憎しみは十分に激しいものがあった。この後、遺体がヨハネの弟子たちの手に渡りその知らせがイエスのもとへ届きこのエピソードは終わっている。「イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた(マタイ14;13)。あのお方がヨハネの死を悼んでいる。弟子たちの悩みが深まる。これだけの苦しみに遭遇した以上、理由があるに違いない。弟子たちは神の気まぐれを疑い必死に自分の信仰を守ろうとした。死に行く者は訴える。自分が死んだ後、一人でも二人でも私を思い出してくれればいいなあ。それで命の儚さに抵抗できるかもしれない。誰かがわたし、ヨハネを思い続けてくれるなら、私は死んではいないと苦しまぎれではあるが、そう言えなくもない。だから、ヨハネの訴えを思い続けよう。ヨハネを生かしその無念を晴らす道はこれしかない。私は寂しい所でヨハネを思う。恐らくヨハネは厄介ごとをばらまくならず者らに悔い改めを迫らなければ自分の存在に価値はないと考えたのではなかったか。そしてその荒野の叫びには確固たるモチーフがあったのではないか。社会の厄介者らの悲しみを描き、ならず者らを神の国に招こう。サロメも王もヘロデアも、神の国から最も遠い者たちだ。そこで、悔い改めを訴える。「悔い改めよ。神の国は近づいた」罪を悔い、生き方を改め、一緒に神の国へ行こう。彼らにも深い悲しみがある。本人たちだって辛い。苦しい。彼らを神の国に導くのだ。あの女に会ってはいけない。不思議な警鐘が鳴っていた。覚悟のうえで、会ったのだ。ヨハネが披露したのは神の言葉を預かる者の覚悟だ。あの女の前でも、この覚悟だけはと願う心境である。それさえあれば殺されても私は生きている。私の生き方を誰かが思い出してくれれば誰にも負けない幸福を感じられる。イエスは自分だけで寂しい所に行かれた

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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