2024年4月28日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「ナタナエル」ヨハネ1:47
これはイエスと出会った12人の純粋で一途で向こう見ずの旅なのだ。死をもいとわない覚悟がみなぎっている。彼らがどういういきさつでイエスの弟子になったかはつまびらかではないが、多分〝わたしについて来なさい〟だっただろう。心がほんの少しでも扉を開けばイエスは〝従え〟と訴えてさらに扉を押し開く。ダビデソロモン時代を絶頂として民族の運命は下降線をたどり続ける。ローマ帝国による統治などはみじめな状況を伝える典型的な史実だ。いつかメシアが現われ、イスラエルを救ってくれる。民衆の間にはそんな気配がただよっていた。とりわけナタナエルにはそれを感じる。問題は彼が見た同じ風景に私たちがどのようにたどりつくかだ。ナタナエルは祖国に託した夢を見て憂えている。この夢を亡くしたら私たちはどうなるのだろうかと苦しい胸中を親友のピリポに告白する。イエスはガリラヤ湖畔で一人の男を見かけ「私について来なさい」と語りかける。ピリポもいきなり〝ついて来い〟と言われても困ってしまう。ピリポは幼ななじみのナタナエルのもとへ急ぎ〝イエスって人に会った。弟子になれと招くんだ〟と相談した。その時ナタナエルは無花果の木の下に立っていた。すでにイエスの弟子となることを決意したピリポは、親友ナタナエルもこの道に従うようにと説得する。二人の友情は、あのメシア待望とイスラエル回復の祈りの中で培われ深められてきた。「ナタナエルよ。幼い時から俺たち二人が求めてやまなかったあの真実なる者に俺は出会ったんだ」ピリポの意中はこうなるだろう。イエスもナタナエルの魂を求める。「ナタナエルよ。お前は祖国の回復を求める真のイスラエル人だ」「どうして私のことがわかるのですか?」「わかるさ。お前はいつも無花果の木の下にいただろう。私はそれも知っているのだから」。無花果の木の下でもの思いにふける姿は神への語りかけを意味していた。ナタナエルはローマに占領されたイスラエルの回復を祈っていたのだろうか。いつかメシアが来臨してイスラエルを救ってくれる。木陰で怠けていたのではない。イスラエルの救いを求めていたのだ。それをイエスに見抜かれ、「この人なら日ごろの俺の悩みに応えてくれるかもしれない。こうして二人そろってイエスの弟子となった。私はナタナエルに関心を持っていたから、私が幼い頃から最も大切にしてきた思念をナタナエルに託すことにした。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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