2024年4月21日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「カイザルのものはカイザルに」エペソ6:14~17
ファラオは、エジプト王だが、カイザルはローマ皇帝の総称であり、固有名詞で表せばガイウス・ユリアス・カエサルであり、イングリッシュネームのジュリアスシーザーである。古代ローマは早くから共和制を布いて国王の世襲を禁じ、元首は選挙で選ばれていた。シーザーの大事業はガリア地方を平定したことだ。古代の戦争は儲かるものだった。シーザーはよく戦い、よく勝ってよく儲けてよく配った。シーザーが人望を集め、権勢を誇ると元老院は大いに警戒を強めた。シーザーが王位を狙っているのではあるまいか。共和制の危機である。「お前もかブルータス!」この台詞を聞かないとシーザーの暗殺劇を見た気がしない。ブルータスは共和制を信奉し、動義を重んじ人間として誠実であったことが知られている。シーザーの暗殺は彼が本当に共和制を排除して自ら王となろうとしたかどうかそこに焦点が絞られる。シーザーに野心があれば共和制を必死に守ろうとした人たちにとってシーザーを殺すことは正義である。シーザーの胸中はわからない。(シーザーを殺そう)ブルータスは理を重んじる人間だ。共和制を守るためにのみシーザーを除くのだ。その情念はあなどれなかった。その後ブルータスは戦場で瀬戸際に立たされ潔い自害。すでにブルータスの妻も自害していてそれを知った時のブルータスは泰然としている。私的な不幸でオロオロしないのがブルータスの誇りなのだ。「カイザルのものはカイザルに」。英雄カイザルは死んだ。平家物語同様、盛者必衰の理。カイザルの生涯にはそういう宿命が隠されていた。お前もかブルータス!ここでカイザルの命運は尽きたのだ。どんなつわものでも命運が尽きれば死ぬ。瀕死の状態でも命運が残っていれば生き延びる。これがキリスト者の哲学だ。命運が尽きるまで歩みを進めよう。命運が尽きたら意気揚々と引き上げよう。あのお方は私たちの武勇を称えて下さるだろう。生きてる限り人は戦い傷つく。「何だって?そんなこと構わんよ。そんなことを避けて生きているわけじゃない。俺は運命の悪意にも人の悪意にも関心がない。ただ神に何をかえすのか。私の関心はそれだけだ。「神のものは神に返しなさい」「それ行け負けるな!」と叫び、時には涙を流して敵対者の声に聞き入り、人間の命運を考えながら「私は勇敢に戦い、信仰を守り通しました」(Ⅱテモテ4:7)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です