2024年4月7日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「慎み深くあるように」ローマ12:3~8
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。」
ここににある「恵み」は詳訳聖書では「功績によらないで受ける神の愛顧」とある。これは、何一つ神のお役にたつことなどできない人間に、神は御目をかけて、面倒をみて育ててくださる。という意味だ。
アブラハムと神が結ばれた契約は、アブラハムの功績によって得られた契約ではなかった。神は御自身に依り頼むアブラハムを義と認め、未来に相続する土地を約束された。何の功績をもあげることのできない人間アブラハムとその子孫に向かって、神の御手は差し伸べられた。時が満ち、約束のメシヤ、イエスによって与えられた新しい契約もまた、一方的なイエスの犠牲によって成立された。イエスの血は、イエスを信じる者と神との間に新しい契約を結ばせ、神との関係の回復と永遠のいのちを与える。功績をあげるどころか自分は赦されるしかない罪人であることを認め、イエスを仰ぎ見てすがる者がこの契約に入れられる。
神の恵みを土台として生きるパウロは、信徒一人ひとりを戒める。「思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。」教会の中には、割礼と律法を誇るユダヤ人が存在し、一方、異邦人が接ぎ木されるためにユダヤ人は折られたと、ユダヤ人に対して思い上がる異邦人が存在していた。教会の中には対立による緊張があった。神の恵みを受けた者は、何の功績も無く神の愛顧を受けたことを知る人びとだ。思い上がることなく神の恵みのもとにひざまずき、慎み深い判断をもって自分を評価するようにとパウロはすすめる。
また、教会はキリストにあって一つのからだであることを教える(ローマ12:4~5)。
イエスはタラントのたとえ話を通して、神の国があらわれるその日までに、神から与えられた賜物を用いて神の喜ばれる良き働きをするように一人ひとりが使命を与えられていることを教えられた。(マタイ25:14~30)。神は、それぞれの能力に応じてタラントを預けられた。教会に集う者が神から預けられた賜物は同じではない。しかし、神は預けた賜物の大きさを重要視されてはいない。神が重要視されるのは、神のこころと一つになり、神に忠実であったかどうかということだ。私たちは、他の人の働きと自分を比べてうらやんだり、自分をつまらない者と決めつけたりする。しかし、キリストのからだが健全に保たれ、活動するには、すべての賜物が必要不可欠だ。神にお会いする日を待ち望み、それぞれが神から与えられた務めに励みたい。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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