2021年11月07日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「見捨てぬもの、裏切らぬもの」 マルコ10:45
伊達政宗の家臣に、侍・支倉常長がいた。正宗の命によりヨーロッパに渡ったのは、スペインを相手に通商貿易の道を開くためだった。だがスペインは正宗が想像していたより、はるかに正確に日本側の魂胆を見抜いていた。(日本の為政者にはキリスト教を認める気なんかさらさらない。貿易でうまい汁を吸おうとしているだけだ)。家臣・常長の渡航は挫折と失敗の連続だった。主君・正宗が、キリスト教を歓迎するなどと親書に書いた嘘をスペインやローマ法王庁に見破られたからだ。常長はマドリードで国王列席のもと洗礼を受けている。自分の本心からではなく、主君・正宗のために自分がキリスト者であった方がお役目達成のため都合が良いと考えたからだ。侍は、主君・正宗のため、イエスを利用した。(イエスを主君として受け入れたわけではない。主君は伊達政宗ただ一人であり、従うべき主君、守るべき家、両親、祖父母、先祖が守ってきたものを捨てるわけではない)。だがこのとき幕府は、外国との通商貿易を断念して鎖国に踏み切り、キリスト教徒弾圧の輪を強めていった。常長の渡航も役割も全く無意味であり、無駄なものとなっていた。常長は何の収穫もなく、八年の歳月を費やした後、キリシタン禁制と鎖国を敷いた故国へ戻ってきた。常長の帰国を知った仙台藩も正宗も、この帰国に困惑した。常長が、形式的にせよ洗礼を受け、禁制のキリスト教徒になっていたからだ。厄介なお荷物。侍は切腹を命じられる。(世界は広うございました。…私にはもう人間が信じられのうなりました。だが御政道の何たるかを知ってから、時折、あの男(イエス)のことを考えます。人間の心のどこかには、生涯ともにいてくれるもの、裏切らぬもの、自分を見捨てぬ者を求める願いがあるのだなあ)。イエスは常長を離さなかった。見捨てなかった。主君に裏切られ、日本に見捨てられた侍は、初めて自分を裏切らぬ者、自分の悲しみを分かち合ってくれる者の存在を見出したのではなかったか。常長には一人の忠実な下男がいた。常長のお供として、あの八年間の旅を支えた男である。下男は切腹を仰せつかった主人を見送る際、「ここからは…あのお方がお供されます」と言ったとか…。あのお方と共に、まだ見ぬ別の世界への旅立ちである。イエスは仰せられる。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり」(マルコ10:45)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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