2021年10月03日  基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「心の割礼」 ローマ9:9~12
行いによらず ただ神を信ずることにより人は義と認められる。この幸いをダビデは高らか賛美する。この幸いは割礼を受けたユダヤ人だけのものなのか?パウロの答えは否である。神を信ずる者は皆アブラハムの子孫であり、神より義と認められるのだ。なぜならアブラハムが義と認められたのは割礼を受ける前の事だからだ。割礼は神がアブラハムと結んだ契約のしるしである。しるしとは、目に見えない事柄を目に見える形で確認できるよう現したものだ。大洪水で地上のものを滅ぼした神はノアとその子孫に対し、水で再び地上を滅ぼさないと契約を結び、虹を示された。この虹を見ることでノアとの契約を思い起こした。割礼もアブラハムと神の契約のしるしである。契約は、アブラハムの子孫をおびただしく増やし、カナン全土をその子孫に与えるとの内容で、割礼はこの契約のしるしであった。口伝や筆記によるのでもなく、あなた方の身体に刻みつけ、忘れてはならないと命じられたのだ。アブラハムは喜び勇んで、自身と彼に仕える全ての男子に割礼を施した。生ける神を我が神とし、このお方の御加護を頂き、未来に続く祝福の約束を得たことは、アブラハムとその子孫にとってこの上ない光栄であった。割礼はまた、生ける神に対する信仰告白の意味が含まれていた。自身の身体に刻んだしるしは、神の民として神と共に生きることを表明していた。だが、ユダヤ人の歴史は、永遠の契約を結んだ神を捨てて偶像に走り、神の忌み嫌われることを行った。割礼を受けても神に対して不従順であるなら、割礼は意味を失う。ユダヤ民族は幾度も滅びそうになり、エゼキエル書にある「その骨は干からび、望みは失せ、私たちは絶ち切られる」との叫びが聞こえるような壮絶な歴史を歩んだ。神がユダヤ人と結んだ契約は永遠の契約である。人間には永遠という言葉はふさわしくなく、その心は常に定まることがない。だが神の永遠の契約と愛の真実さは、ユダヤ人の歴史が証明している。人間は、神の御手にすがり信頼して生きれば良いのだが、時に神の手をピシャリと払いのけ、ツバを吐く。だが、心を虚しくし、神の御手にすがるなら、神は私の手を振り払ったりはしない。イエスの弟子ペテロは、聖霊降臨の後、割礼を受けたユダヤ人に福音を伝える使命を委ねられた。一方パウロは、割礼を受けていない異邦人に福音を届ける使命を委ねられた。二人はお互いの使命を確認し、共に与えられた使命のために走った。一粒の麦としてご自身を献げられたイエスの犠牲は、使徒たちの働きを経て今日、世界中に無数の神の子たちが実るようになった。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる」( 創世記15:5)。アブラハムのように神を信じる者は、全てアブラハムの子孫である。さらにこの地上に神のご計画が進むよう祈らされる。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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