2021年8月29日 基督聖協団目黒教会牧師 横山聖司
「御国の一番小さい者」 マタイ11:2~19
神から遣わされた、預言者ヨハネの第一声である。「ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。『まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのかそれならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。』(ルカ3:7~9)。『まむしのすえたち』。人間に対しこんな失礼な言葉はない。一方、イエスの公生涯の第一声は次のような様子であった。「イエスは…会堂に入り、朗読しようとして立たれた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。』(ルカ4:16~22)みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。ヨハネの第一声とは真逆であり、そこには、裁き主としての片鱗はどこにもない。よく知られたイエスの山上の説教の第一声である。「そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(マタイ5:2~4)。『まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか』(ルカ3:7)。『まむしのすえたち』。人間に対しこんな失礼な言葉はない。だがヨハネの眼から見れば、裁かれるべき人間の姿は、まむしのようなものだった。その「まむしのメッセージ」をイエスご自身がその身に引き受けて下さった。私たち、まむしのすえどもが受けるべきのろいはどこに行ったのか?全部イエスご自身の身の上に下った。これが十字架である。ヨハネの裁きのメッセージは、根も葉もない事実無根の戯言ではない。確かに私は、まむしのすえなのだ。その私のため、イエス自ら「まむしののろいをその身に受けて下さったかたちで「まむしのメッセージは生きている。神の怒り、呪いは、すべてイエスの身に下り、教会には、神の愛と恵みしか来ないようにして下さった。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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