2021年8月22日 聖協団目黒教会牧師 横山聖司「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした」 黙示録11:15~18
「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。…もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います」(ローマ13:3~4)。国家権威は神によって立てられ、悪者にとっては恐れとなる。「剣」は、国際秩序を乱す紊乱者や、悪に対する制裁権の行使と見ることもできる。そう見なければ、現実問題として、国際秩序の維持は困難だ。だがこれは〝紙一重〟で、一歩間違えば単なる人殺しと変わるところがなく、「悪を行う」との言葉が命綱だ。制裁権は〝善悪〟の基準で行使されるべきもので、利害関係や利権、特定主体の都合・不都合で使うべきものではない。国連(United Nations)は、第二次大戦後、国際平和と国際社会の安定、安全維持を目的に設立された国際機構である。日本の教会は、国連の平和維持活動に賛同する割合が多いのではないか。問題は、国際社会の平和維持のため、秩序の破壊者に対し、制裁を加えねばならない点である。秩序の破壊者を放任するならば、秩序維持機構は無意味である。国連にとって制裁行為は本質、必然的なことなのだ。それでも日本の教会は、国連の平和維持活動に賛同するのだろうか?国連憲章を正確に引用すれば「共同の利益の場合を除いては、武力を用いてはならない」と定められている。つまり「共同の利益」が侵される場合、武力行使が認められている。「共同の利益」とは何だろう?反意語、対義語を思い浮かべれば自ずと意味は明らかになる。「共同の」の反対語は、「特定の」である。特定の個人、特定の団体、特定の政党、特定の国家等々、特定主体の都合・不都合、特定主体の利益が動機となって剣を抜けば、それは「警察軍」とは言われ得ず、「国際ギャング」とでも称すべきものである。正しい「警察権」行使されるとき、一国の総理・田中角栄にだって剣は及ぶし、賭けマージャン問題で略式起訴された黒川検事長にも剣を抜く。これが理想的「警察権」である。今後、国連軍が、「我々は無意味に剣を帯びてはいないからです。我々は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います」(ローマ13:4)と、自ら是認するのなら、我々教会は、国連軍に対し、厳格な善悪の基準に立つよう強く要請する。人間の原罪たる利害関係の超越、善は報われ、悪は罰せられる…。国連軍に求められる倫理はただこれだけだ。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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