2021年8月15日 聖協団目黒教会 都丸道宣牧師
主題「過ちと裁き、そのはざまで」 創世記4章1-16節
カインとアベルの兄弟の名前には母の思いが込められます。カインには「私は得た」、アベルには「息、虚しい」でした。アベルは羊を飼うものになり、カインは畑を耕すものになりました。カインはあるとき、神様にささげものをしようと、農作物を持ってきます。アベルは羊の初子の中でも最も素晴らしいものを選んできました。すでに命の奪われた子羊を、心を込めて神の御前にささげました。神様はアベル自身とそのささげものに目を留められました。それはアベルが自分の罪を見つめ、その罪を覆う神様を見上げ、神だけが私をささえてくださると信じたからです。アダムとエバの罪も、血を流した動物によらないでは覆うことは出来ませんでした。アベルはそのことから、自分と神の間にある溝に対して敏感であり、それが埋められることを願っていました。イエス様が罪のないままで命を奪われ、神の前にささげられる必要があったのは、私たちの罪の問題のためです。罪の無いいけにえをささげられることなく、私たちの罪の問題に解決はありません。アベルは自分自身をささげる思いで、子羊をささげました。カインは違いました。それで、そのささげものにも、カイン自身にも神様の目は留められません。彼の虚しさは彼の心をむしばみ、孤立は深まります。カインは「虚しく」なり、アベルは多くを「得て」いる、という皮肉が起こります。カインの内に罪は肥大化し、悪を行うことも良し、となってしまったのです。自分は正しい。みじめではない。自分を否定するアイツがおかしい。神こそおかしい。自分を義とする者の末路は痛ましいです。自分のやりたいことだけをやっているのに、かえって追い込まれていきます。弟を殺害したカインは放浪の身となります。土地はのろわれ、土地から彼自身がのろいを受け、農業も出来ません。過ちを犯し、裁きを受けてもなお、彼は自分に罪を認めません。アベルは罪を認めました。過ちを認め、これから起こりうる過ちに対しても、神の前に出て、神の方法による罪のあがないを乞うています。私たちも、罪を認め、砕かれた魂を持って、神の前に、信仰によるささげものをささげたいと思います。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。」(イザヤ57:15)

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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