2021年8月1日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「赦す神」 ローマ4:1~8
救われるには律法を行うことが必要だと信じるユダヤ人たちに、パウロはアブラハムに対して語られたことばを引用する。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」(4:3)。アブラハムは信仰の父と呼ばれ、神に愛された人である。アブラハムは神に命じられ、信仰によってまだ見ぬ地へと、家族と全財産を引き連れ旅に出た。不安だらけの出発であったが、神が共におられ、旅を成功させてくださることを信じていた。神はアブラハムを祝福したので、たくさんの家畜、金、銀を所有するようになった。親戚同士の争いを避けるため、甥のロトと別れることになったとき、アブラハムはロトに土地を選ぶ権利を与えた。ロトは肥沃な土地を選び、アブラハムはそれを良しとした。アブラハムの心は神に信頼していたので、ロトに優先権を与えることができたのであろう。神に寄り頼み、信頼するアブラハムの心を神は喜んだ。神は〝彼の神〟と呼ばれることを恥としなかった。アブラハムは失敗の無い人ではなかった。だが神に寄り頼む信仰によって、神はアブラハムを罪の無い者、義と認められたのである。ユダヤ人の初めであるアブラハムが義と認められたのは、彼の行いによるのではなく、神に寄り頼む信仰により義と認められたのであった。もし、行いによって人が義と認められるのであれば、人は神に義と認められることを請求する権利が生じることになる。だが人には神に何かを請求する権利はない。人が神に対して負う債務が大きすぎるからである。良い行いで神に貸しを作ったかのように考える者は、自分の本当の姿に気付いていないのだ。行いの無い者を義としてくださる方を信じる信仰によってのみ、人は義と認められるのである。ダビデも詩篇で、罪を覆われる人の幸い、神が罪を認められないことの幸いを高らかに賛美した。ダビデは神を恐れ、神を愛し、神に用いられた信仰の熱い人だった。自分の命を狙うサウル王に対しても神の御前にへりくだり、主が選び、油を注がれた人を殺めることなど絶対に出来ないと、二度もサウルの命を救った。だがそんなダビデも王になると、いつしか心が神から離れ、恐ろしい罪を犯した。人妻であるバテシェバを自分のものとし、夫ウリヤを戦場の最前線に送って戦死させ、ウリヤの命を奪ったのである。神は預言者ナタンを遣わし、ダビデの不義を断罪した。ダビデは自分の罪を悔い、心砕かれ、打ちひしがれた。神は砕かれたダビデの心を見て、その罪を赦された。人は行いによって神に義と認められることはできない。神はご自身の愛にひれ伏し、寄りすがる心を退けず、その信仰を義と認められるのである。とき至り、イエス・キリストが全人類の罪の身代わりとなり、神の罰をその身に受けてくださった。赦す神の義を現わされたのだ。罪を覆われた人は幸いである。神が罪を認められない人は幸いである。私たちも心から神に賛美を捧げたい。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18:10~14)

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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