2021年7月25日 聖協団目黒教会牧師 都丸道宣
「過ちのあるところに」創世記3:14-24
サタンの魔の手が神様の造られた素晴らしい世界に伸びてきました。蛇とサタンのタッグによって誘惑が入ってきて、エバ、そしてアダムとそれに負けてしまいました。神様は蛇から順番に裁きのことばをくだします。その中で注目すべきはサタンに告げる裁きの言葉です。そこにイエス様の存在が示されています。この戦いにサタンが敗北するというのです。人が過ちを犯しているのにもかかわらず、その最中で神様はまったく逆の方向を見ておられます。それは人が悔い改めるなら、その全てを赦し、受け入れようという愛の思いなのです。私たちは過ちを犯しますが、そこで終わりではないのです。しばしば過ちの中で立ち止まり、下を向き、その弱さや過ちの醜さ、汚れのために、より手を汚してしまうことさえ、仕方ないと考えてしまうことがあります。敵意や、反省の無いことさえ放置し、そんな自分の無鉄砲さを誇ろうとさえすることがあります。それこそ孤独な戦いなどと勘違いしていることさえあります。しかし、神様はそんなことはない、あなたは素晴らしい、あなたは誇らしい、立ち返るなら、あなたは素晴らしいことを成し遂げるのだ、ということを何度も何度も人に語りかけておられます。間違いにとどまり、過ちから動けないでいるのは自然な人間の営みではなく、新しいこころをもって、勇気をもって立ち上がり、前に歩きだしてほしい、と言わんばかりに、過ちのゆえに裁きを受け取ったアダムとエバには皮の衣まで用意されました。獣に流された血に、自らの罪の結果を目の当たりして、アダムはエバに名前を付けます。生きるという意味が込められています。血が流れたのは自分ではありませんでした。しかし、罪には犠牲が伴うことがはっきり分かりました。かつて自分が名前を付けた親しみのある獣の犠牲によって、より深く理解したのでしょう。裸がしっかり守られて、神様は罪に対して厳粛であり、しかし愛のお方であることをしっかり受け止め、生きるという意味に向かって一歩踏み出します。エバの子孫がサタンに打ち勝つ。そのために自分にできることがあるのではないか、と受け止めているのでしょう。私たちの人生には過ちがあります。仕方ないことですが、だからと言って、それを放置したり、隠したり、ごまかしたり、ねじ曲げたところで神に受け入れてもらえることは難しいことです。気づいたのなら、受け止めて、その重さを知りつつ、恐れずに神の前に言い表して、赦し受け入れてくださる唯一のお方に期待していきましょう。神様は私たちの過ちの最中でも赦しの道、癒しの道、愛の道を用意してくださっておられます。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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