2021年7月18日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「おまえたちは生き返る」 エゼキエル37:1~13
第五幕が開くと、ロミオが毒薬を売る薬屋を探している。ジュリエットのかたわらで死ぬためではあるまいか。薬屋が庶民に毒薬を売り渡せば犯罪だ。だが薬屋は貧しい。金を受け取った薬屋はうまいことを言う。「この金を受け取るのは私の貧乏。私の心ではありません」。「金をやるのはお前の貧乏にだ。お前の心にではない」。だが人間の心はこれほど誇れるものではあるまい。聖書は「地は混沌であった」(創世記1:2新共同訳)で始まっている。「混沌」、「茫漠」(新改訳)、「形なく、むなしく」(口語訳)、原語の「トーフ・バボフー」で、「無秩序、廃墟のようであった」との意味だ。廃墟のような地に、美と調和に満ちた世界が創造された。「トーフ・バボフー」、この言葉がユダヤ人の中で頻繁に意識されるようになったのが、紀元前6世紀、バビロン捕囚の時である。戦争で、町や村が徹底的に破壊され、神の都エルサレムも廃墟のようになった。人間の罪が、世界を再び廃墟のような目茶苦茶な場所にした。アメリカ大統領ジョー・バイデンは、アフガニスタンに20年間駐留し続けている米軍を、9月11日まで完全撤退すると発表した。かつてはシルクロードの桃源郷と呼ばれ、果物が採れ、ケシの花が一面に咲き乱れていた。丘陵地一面にアザミの花が咲き、ルリ玉アザミのブルーが風に揺れていた。そのアフガニスタンが、戦争で今や荒涼たる瓦礫の山である。バビロン捕囚の五年目、エゼキエルが預言者として召命を受ける。以下はエゼキエルが視た復興の幻だ。「主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。…神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る」(エゼキエル37章)。廃墟の象徴、バビロン捕囚の五年目、預言者は幻を視る。骨と骨とがぶつかり合いながら、背骨は腰骨を探し、頭蓋骨は首の骨を求めて宙を舞う。腕の骨は、肩の骨にカチャカチャ触れ合いながらパズルのようにはまっていく。「わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げる」(37:13)。墓のある所に復活があり、呑気な生活に墓場はない。(もうダメだ。もう無理だ)、その墓場で神は何かを始める。人を活かす神の力、新しい命に生きるなら、「金をやるのはお前の貧乏にだ。お前の心にではない」、これくらいの台詞もさまになるだろう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です