2021年7月11日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「エモリ人の咎」 ローマ13:1~15
「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。…もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います」(ローマ13:3~4)。国家権威は神によって立てられ、悪者にとっては恐れとなる。「剣」は、国際秩序を乱す紊乱者や、悪に対する制裁権の行使と見ることもできる。そう見なければ、現実問題として、国際秩序の維持は困難だ。だがこれは〝紙一重〟で、一歩間違えば単なる人殺しと変わるところがなく、「悪を行う」との言葉が命綱だ。制裁権は〝善悪〟の基準で行使されるべきもので、利害関係や利権、特定主体の都合・不都合で使うべきものではない。このとき占領地では厄介なトラブルが起きていた。神は「盗んではならない」と命じ、個人的略奪を禁じていた。にもかかわらず盗み取る。それとは知らないヨシュアがアイの町に攻め込んだとき、惨めな敗北を喫する。「なぜか?」と問えば、神が答えて「不心得者がいる」とのこと。ヨシュアは略奪犯人の割り出しにかかり、アカンとその家族を厳罰に処した。ふんどしを締め直し、その後の戦いは連戦連勝、カナンの地を最も広い範囲で支配下に治め、各部族にそれぞれの土地を分け与えた。(これって侵略戦争じゃないの?)との疑問が残る。その昔、アブラハムが神の啓示を受ける。「あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし…四代目の者たちが、ここに戻って来る」(創世記15:13~16)。なぜ四百年後なのだろうか?「それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである」(15:16)。「エモリ人」とはカナンに住んでいた先住民の総称で、ダゴンの神を崇めてイスラエルの神に敵対し、人身御供、生贄として赤ん坊を殺し、偶像に捧げたりしていた。ヨシュア一行が約束の地に戻って来ようとしていた頃、カナンではエモリ人の咎が頂点に達しようとしていた。ヨシュア一行は「剣」を握る。「彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います」(ローマ13:4)。制裁権は〝善悪〟の基準で行使されるべきもので、特定主体の利害関係や利権、都合・不都合で使うべきものではない。その意味でアカンの個人的略奪は見過ごせないものであった。なんだか身の引き締まる思いがする。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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