2021年7月4日 基督聖協団目黒教会 都丸道宣牧師「そよ風の吹くころ」創世記3章1-13節
この世界には、誰も自分の助け手にふさわしい者はいないのかという思いが浮かんできた矢先、アダムは最高の相手に巡り合いました。神様がアダムの体の一部から造り出した助け手は最高の相手でした。最高の日常が続くのかと思われたが、不穏な訪問者に出くわします。蛇です。いや、蛇の姿と能力を借りたサタンです。サタンに同調するなら神に背く者となります。蛇は言葉巧みにエバを誘惑し、アダムにまで罪を犯させました。ふたりは神様が唯一禁じていた園の中央の木の実を食べてしまいました。駄目だ、と思いながらも、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢というような欲望が、むくむくと膨れ上がり、目の前の木の実は食べるしかない、という決心につながりました。食べてしまうと、知識によって目が開かれるかと思いきや、ただ、裸が恥ずかしい。いちじくをつなぎ合わせて性的な部分を隠します。性は罪と汚れにつながりやすいという自覚の芽生えです。子孫が罪によってけがれていくことにもなりました。自分の身に罪があることに、果てしない恐れを感じました。しかし、恐ろしさのあまりとった行動は自分の過ちを隠すことでした。過ちを隠し、自らを隠し、もう隠れられないとなったら、責任を回避するために言い訳を始めました。その名も「罪の木の実」ではなく、「善悪の知識の木の実」がもたらしたものとはなんなのでしょう。恥と恐れと責任逃れの知恵でした。人間はもはやシンプルに主に歓喜と共につながることが出来なくなりました。罪を自覚し、恥じ、しかし、主の御前に出るしかないのです。裸でも恥ずかしくなかった2章の最後からすると、天と地ほどの開きです。神様が遠く、大きく、恐ろしい……。しかし神様は自ら近づいて来てくださいました。罪ある者として、ただ裁く対象としては見ておられません。アダムとエバは責任逃れの言い訳を選びましたが、反面教師として学ぶ必要があります。近づいてくださる主の愛は、悔い改める者には赦しを与えます。近づこうとする者には抱擁を用意しておられます。神を軽んじたり侮ったりすることがあったなら、それをまず包まず述べて、神にどうしたら赦していただけるのか、聞きながら打ち明けていくのです。言い訳が先に思いつくこともあるでしょうが、神が何を喜ばれ、神に受け入れていただくためにはどうしたらいいのか。神の祝福だけをいただきたい。それさえあれば、何もいらない。という思いで知恵を、勇気を、力を働かせましょう。神の祝福を、愛を、助けを受けとる能力を伸ばして、健やかな一陣の風のように、この地上生涯を駆け抜けましょう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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