2021年6月20日基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「闘う教会」 ローマ3:21~26
〝贖い〟とは何か?これを証しする責任が課せられ、そのために地上の教会は闘争する。〝贖い〟の原語は「アポストローシス」であり、奴隷として売られた者を、お金を払って買い戻す、身代金を支払い開放するの意味である。奴隷の買い戻しと言えばアモス書だ。預言書ホセアの妻ゴメルは、夫を裏切り情夫と密会を重ねる。だがこんな生き方がそう上手くいくはずもない。ゴメルは情夫に捨てられ、奴隷市場へ売られていく。豊洲市場のマグロの競り市を想像すればそれでよい。ゴメルに値がつけられていく。突然、懐かしく甘い声が響く。夫ホセアの声だ。「そこで、私は銀十五シェケルと大麦一ホメル半で彼女を買い取った。私は彼女に言った。『これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう』」(ホセア3:2~3)。こうして夫ホセアは、妻ゴメルを買い戻し、贖ったのだ。贖いの代価は「銀十五シェケルと大麦一ホメル半」、決して1億、2億などという金額ではないが、夫ホセアの心意気に胸が打たれる。贖う行為は人の心を打つ。ある放蕩息子が誘拐され、三億円の身代金が要求される。(放蕩息子がいなくなった!万々歳!)と喜んだのは、O・ヘンリーの短編小説だが、現実は放蕩息子といえども喜んではいられない。〝お父さん!私に財産の分け前を下さい〟と家を飛び出し道楽三昧、その上この期に及んで三億円の身代金である。放蕩息子だって、(こんな俺のために、どこの馬鹿が三億も払って買い戻すだろうか)とあきらめムード。(そんな価値が、俺にあるはずがない)。ところが父親は、親類縁者に頭を下げ、三億円を工面するではないか。これが〝贖い〟だ。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ローマ3:23~24)。贖いの代価は、キリストのいのち、イエスの流した血潮である。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。あの姿は、身代金を支払い、罪人を買い戻している姿である。「贖い」。これを解き明かし、伝えるのが教会の闘い、「我が闘争」であるのは言うまでもない。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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