2021年6月6日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「御父の命令に従って」 Ⅱヨハネ1:6~7
水が美しい。草が美しい。花が美しい。神が創造した大地はのどかな楽園、パラダイスになった。明るい光が穏やかに輝き(静かだなあ)、人間は太古からこんなのどかさを愛したのだろうか。だが、ここに登場するのが蛇である。雲が湧き、日が陰り、風が起こり、夜が近づいてくる。静けさが恐怖を帯び始める。人類はこの事態を恐れていたのだ。エデンの園、そこは〝善か悪か〟そんな風土の土地であった。「神は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない』」(創世記2:16~17)。神の創造のテーマはふたつ、物(天体・動植物など)と人間である。この両者を区別する要素は、神のかたちである人格があるかないかである。人格とは、誰かを愛する力であり、善か悪か、何かを選び何かを捨てる選択力だ。人格を持たない〝物〟は、神が定めた自然の法則に支配、強制され存在している。春に桜が咲き、夏にはひまわり、秋にはコスモスの花がゆれる。そこに選択の余地はない。桜の木が(今年は真冬に咲くぞ!)と、のたまえないのは、選択の余地がないからだ。だが神は、人間に対し、この強制力を発動されなかった。強制する代わりに、命令されたのだ。「神は人に命じて仰せられた」(創世記2:6)。強制と命令とは別物である。はっきりとした区別がある。強制に選択の機会はなく、命令は善悪を目の前にする。神を愛し、神に従うとは、良い道を選ぶことである。人生は良い道しか存在しないような甘ったれたものではない。アダムとエバの目の前にも、良い道だけが存在していたわけではない。愛はその性質上、選択肢が伴う。裏切る能力もある。約束を破る選択の可能性もある。だが神よ、私はあなたに従います。愛とはそういうものだろう。「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです」(Ⅱヨハネ1:6~7)。イエスを、救い主として告白するのか、しないのか。人間に選択肢を与えた神は誉むべきかな!

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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