2021年5月30日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「人は死ねばゴミにはならない」 Ⅰコリント15:12~13,17~20
数年前、日本の出版会では「人は死んだらゴミになる」、そんなタイトルの本が出版された。(すごいタイトルだな)ためらいのない表現にとまどいつつ(そう言い切るとは大した度胸だぜ)と感心もした。「人は死ねばゴミになる」、こんなひどいことを言ったり考えたりしないよう、イエスは訴える。以下はその物語である。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。…さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』(ルカ16:19~26)。一面に白い霧が広がっている。霧の間の空が今まで見たこともないほど、澄みきった青の色を呈している。あの空の青は天国なのだろうか。よほど高い所に感じる。見上げる空の青はあまりに美しすぎて、人間たちの世界の色ではない。だが視線を落とすと、目の前には凄まじい光景が広がっている。業火に焼かれる者、溶けた鉛の湯を浴びて焼けただれる者…その悲惨さはただごとではない。長く見てはなるまい。人は死ねばゴミになるわけではない。地上で悪いものを受けていたラザロが、ここでは輝きを増す。きらめく光はまっすぐに走り、また曲線を描き、速くゆるく、長く短く、千変万化を示し、ラザロを包み、愛と喜びへと誘う。まさにこの世のものではあるまい。(人間、死んだらどうなるのかな)、誰もが心を悩ましているはずだ。人は死ねばゴミにはならない。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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