2021年5月23日 基督聖協団目黒教会牧師 都丸道宣
「土の器に注がれる神」 創世記2章1-9節
創造の六日が終わり、神様は七日目には休まれました。ご自身の創造のわざを完全に終え、休まれました。しかしただの休みではありません。その日を祝福し、聖なるものとされました。これまでも祝福はされていますが、生き物に向かってでした。この日は七日目という一日に対してされています。被造物が全てそろったところで、神の休まれた日は一段高い祝福の日へと変えられました。生めよ、増えよ、地を満たせ、という、数や量が具体的に増えていくのではなく、質的に価値が上げられました。そこに聖という天からの価値が加えられました。この休み、安息は聖書の中で何度か出てくるものです。モーセがエジプトの奴隷を解放したときに、週に一度の休みを約束されたのはこの神様の安息がモデルです。イエスさまの十字架によってもたらされた安息は私たちを日々の煩いからの解放ですが、その安息の元となっているものです。そして、やがて来る新しい天と地に入った時にもたらされる永遠の安息もこの安息に繋がっています。私たちが地上に生きているときから、聖さにあずかるとき、安息がもたらされ、罪と死の恐れからも解放され、御霊の満たしが訪れるのです。今日は聖霊が弟子たちに降った日を記念するペンテコステの日です。御霊の満たしを受け、地上のあらゆる煩いから解き放つ、主の聖さに大胆に近づこうではありませんか。そして、4節からはもう一度六日目の創造の出来事の詳細が語られます。人は植物のあまりないところで造られ、神様にエデンの園という、エデンという場所の東の方にある地へと連れて来られます。美しい木々や無数のフルーツに出迎えられて、人は神様に愛されていることに心打たれたことでしょう。そこの中央にいのちの木と善悪の知識の木があります。彼の命運を握っています。人間はその生涯のはじめはちりでした。土の器に過ぎない、死んでしまえばまた土に戻ってしまう儚い素材です。しかし、神様の息、霊によって生かされます。霊によって生きなければ野蛮な考えしか浮かばない私たちは、どうにかして神様の霊に繋ぎ留められなくてはなりません。悪い思いしか浮かばないのは土に属し、闇と死にくみする者であるからです。光と聖の性質をいただいていても、それを求めないなら、希望も知恵も力も心も、土に過ぎないことをことごとく証明することでしょう。聖さを降り注いでくださるよう、神に願いましょう。土の器に過ぎない私たちに、霊と聖さを与えようとする神様がいま、私たちにそう願ってほしいと、語りかけています

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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