2021年5月16日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「門の外へ」 へブル13:11~12
「動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました」(へブル13:11~12)。旧約のややこしい犠牲宗教について語られているため、地味で心に残りにくい言葉だ。イエスが十字架についたゴルゴダの丘、そこは「門の外」(城壁の外)であった。へブル13章11節「宿営の外」は、謎を解くキーワードだ。旧約聖書は「宿営の外」、このキーワードを多用する。「雄牛の肉と皮と汚物とは、宿営の外で火で焼かなければならない。これは罪のためのいけにえである」(出29:14)。「罪のためのいけにえの雄牛と、罪のためのいけにえのやぎで、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に持ち出し、その皮と肉と汚物を火で焼かなければならない」(レビ16:27)。罪のためのいけにえは「宿営の外」「宿営の外」と繰り返す。その理由は、キリストの登場で初めて明らかになった。「門の外」で屠られたイエスは、「宿営の外」で捧げられた罪のためのいけにえなのだ。突然だが、「目覚まし時計」は何の目的のために作られたのか?その存在意義は明確である。机、まな板、扇風機…作られたものには、存在の目的や意義が規定されている。問題は人間だ!なぜか人間だけが、なんのために生まれ、なぜ自分が存在しているのかハッキリしない。ドイツ語に、existenz(〝外に脱落した存在〟の意味)がある。最初の二文字〝ex〟は、exit(出口)、export (外へ運ぶ)の語源であり、原義は〝外に落ちた存在〟だ。外に落ちた存在〝ex〟、これが人間の現実である。これは旧約が繰り返した「宿営の外」、この「外」と何か関係があるのだろうか?また、イエスが十字架についた「門の外」、この「外」と何か関係があるのかもしれない。パウロによれば、神を知らない異邦の民は「キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした」(エペソ2:12)。まさに、existenz(外に脱落した存在)であった。その「外」に、私に近づくため、イエスが来て下った。外に落ち、外に脱落した私とひとつとなるため、イエスご自身、外に落ち、十字架を背負って下さった。イエスは、私よりも、私のすぐ近くにおられる。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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