2021年4月25日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「真の礼拝者」  ヨハネ4:23~24
35年ほど前、エジプトへ赴いた。私としては初めてイスラム圏へ足を踏み入れた旅であったが、朝早くから礼拝の呼びかけがホテル近くの街頭スピーカーから流れ、私は無理やり起こされた。次の瞬間、大音量でコーランの祈りがカイロ市内に流れ始めるではないか。朝も昼間も夕方も、夜にも祈りの時間が設けられ、あちこちで礼拝が始まる。今にして思うに、これが礼拝を尊ぶイスラムの魂なのだと思うが、なんたって私のほうは寝不足になるし、旅行ガイドブックを読む作業はその都度中断させられるし…。まあ、まあ、私はここに住むわけではないし、一介の旅行者に過ぎないけれど、こういう習慣の中で毎日暮らすとなると(よくこんなことで仕事ができますね。集中力を欠くのでは…)と大いに心配したが、現地人、涼しい顔で曰く「それは違います。私たちは神に祈ることが生活の中で一番大切なことなんです。仕事はその次ですからね」。なるほど、なるほど。生きていることの第一義が神への祈りであるならば、なにをおいても礼拝に励むのが当然のこと、自明であろう。あくせく働いてなにが楽しいのか。神を神とし、礼をつくし拝すること、これに勝るものはない。こうしたロジックである。(これって一理あるなあ)。私はいくばくかの感慨を覚えた。「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(4:23~24)。水汲みに勤しむサマリヤの女に語るイエスのことばだ。イエスの死と復活をもって福音書の記述は終わり、教会が誕生して歴史は新しい局面へと移る。聖霊の時代である。「わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(16:7)。〝助け主〟とは、ギリシャの〝パラクレイトス〟あるいは〝ペリクリトス〟であり、前者なら訴訟用語の〝弁護人〟、後者なら〝慰める者〟である。英語ではcomforter(慰める者)の訳を当てており、頭文字の〝c〟を大文字すれば〝聖霊〟の意味になる。弁護者、慰めるお方が礼拝の真ん中に臨在され、私たちの礼拝を導いておられる。緊急事態宣言下のコロナ禍の中、礼拝もままならないが、魂は真の礼拝者でありたい。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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