2021年4月18日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「神の律法と約束」 ローマ3:27~31
律法はヘブル語で〝トーラー〟と呼ばれ、モーセ五書、または旧約聖書全体をさす。 律法は神のことば、神の御旨の啓示である。イエスは多様な律法は二つの戒めによって要約されると仰った。第一に大切な戒めは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ」。 第二は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」である。人が神を愛するとは、人間の側から神に愛を与えることではない。まず初めに、神が人間を愛されたのである。最初に、罪人である人間に、諦めない永遠不変の愛を注いでくださったお方が存在する。人が神を愛するのは、神の愛に対する応答の愛である。「心を尽くし、思いを尽くして神に近づき、神を愛しなさい」との律法は、神の愛に信頼し、神の愛にすがる信仰を求める律法だと言えるだろう。一方「隣人を自分のように愛せよ」との律法は、生活の中で人を思いやる言葉掛けや行動で現わす律法だ。これら二つの戒め、「信仰の律法」と「行ないの律法」であり、双方が人間にとって大切な戒めである。選民イスラエルには誇りがあったが、この誇りは「信仰の律法」によって取り除かれたとパウロは言う。イスラエルはただの一度も「行ないの律法」によって神から義と認められたことは無かった。彼らの先祖であるアブラハムが神に義と認められたが、それはアブラハムが神の約束に全幅の信頼をおいて依り頼んだからである。決して「行ない」によるものではなかった。その子孫のイスラエルの民は、年に一度の贖罪の日に、全イスラエルのために、いけにえの血が流された。イスラエルの民は、この儀式により、神の民として存続することができた。神はアブラハムとモーセと契約を結ぶが、いづれも神の側の一方的な契約だった。人間に契約を守る力がないことをご存じの神は、予め片側通行の契約をイスラエルと結ばれた。それゆえ、何度も契約に違反し、約束を破っても世界の歴史からイスラエルの名が消されることはなかった。彼らが神に背き、呪いを帯びても、再び神に立ち返るなら神は彼らを救い出した。神の側を向き、神に近づくこと。心を尽くして神を愛すること。「信仰の律法」を守ることだけが神の御前に受け入れられる道だ。神の愛を知ったものは神を愛するだろう。神の御旨の律法を喜ぶだろう。失敗しても、間違えても、アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた、「あなたを捨てない」との神の約束を胸に刻み、十字架で流された血潮の完全な罪の赦しを見上げ、神の御教えを口ずさみつつ歩むだろう。信仰は律法を無効にするのではなく、むしろ律法を立てるものである。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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