2021年4月4日基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「神の加護」 ルカ23:43
イエスと共に十字架につけられた二人の犯罪人。一人の名をアダルとでも呼んでおこう。ならず者のケチなコソ泥を想像すれば当たらずとも遠くはあるまい。アダルはこれまで、自分の死をまともに考えたことがなかった。いずれはやって来るだろうが、まだまだ先のこと。それより人生勝手放題にやって楽しまなくちゃ、と無軌道な生活を送っていた。死について考えたことのない男は、地獄についても天国についてもただの一度も考えたことがなかった。「フン、なにが地獄よ。人間なんか心の臓が止まればそれでおしめえよ。あとは真っ暗闇。なんもありゃしねえ。せいぜいお天道様が拝めるうちに楽しい思いをしておかなきゃ損だぜ」。地獄がなければ何をやっても裁かれない。これがアダルの信条だった。まったくの話、火つけ、泥棒、かどわかし、ゆすり、喧嘩、詐欺、暴行、悪事という悪事は全てやってきた。神を畏れたこともなかったし、善行など思い出そうにも思いつくものがない。「ふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。…そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。」(ルカ23:32~33)。この時、これまでのアダルの信条が揺らいだのではなかったか。(もし地獄があったら、えらいことだぜ)。この考えがちくちくと無法者の胸を刺す。厳粛な人生のテーマが初めてこの男の心に影を落とす。相棒が断末魔の叫びを上げ、隣の男を罵っている。「てめえ!神の子だろう!自分を救って俺を救え!」。相棒も地獄を見て叫んでいるのだろうか。死が近づいてくれば、それだけ天国、地獄の有無が心に引っかかる。「天の父よ…、彼らの罪を…、お許し下さい」。(〝彼らの罪をお赦し下さい〟だと。俺の救いを祈っているのだろうか。俺の心を試しているのかもしれない)。気がづくと、俺は相棒をたしなめ、生まれて初めて、汚れた心を神へと向けていた。「黙れ!俺たちは当然の報いよ。しかし、このお方は何にも悪いことをしちゃいねえ。イエスさんよ。天国にいくときにゃ俺を思い出してくれよな」。するとイエスは優しい視線を向け「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:43)と約束した。アダルは微かな意識の中で頷き、ニッコリほほ笑むとそのまま息が絶えた。(なんの。地獄があっても、俺は大丈夫だぞ)。そう思って最後の息を吐いたはずである。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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