2021年2月14日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司

「備えよ!」 アモス4:12

旧約聖書のレビ記、民数記、申命記を開くと、雌牛が〝モオゥ〟と飛び出し、―びっくりしたなぁ、モオゥ―と、駄洒落も飛び出す。雌牛は罪を潔めるいけにえだ。「主はモーセとアロンに告げて仰せられた。…傷がなく、まだくびきの置かれたことのない、完全な赤い雌牛をあなたのところに引いて来させよ。あなたがたはそれを祭司エルアザルに渡せ。彼はそれを宿営の外に引き出し、彼の前でほふれ。祭司エルアザルは指でその血を取り、会見の天幕の正面に向かってこの血を七たび振りかけよ。その雌牛は彼の目の前で焼け。その皮、肉、血をその汚物とともに焼かなければならない。祭司は杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を取り、それを雌牛の焼けている中に投げ入れる。祭司は、その衣服を洗い、そのからだに水を浴びよ。その後、宿営に入ることができる。しかしその祭司は夕方まで汚れる。それを焼いた者も、その衣服を水で洗い、からだに水を浴びなければならない。しかし彼も夕方まで汚れる。身のきよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置き、イスラエル人の会衆のため、汚れをきよめる水を作るために、それを保存しておく。これは罪のきよめのためである」(民数記19:1~9)。焼肉パーティーをおっ始めようというわけではない。雌牛のいけにえが、罪を潔めるのに役立つことを告げている。なぜ役立つのか。なぜこんな面倒な手続きが必要なのかは人間の問うところではない。素直に従えばよいのである。さらに申命記21章には、雌牛が殺人事件の解決に役立つことを告げている。「長老様、大変です!町はずれで人が殺されています。誰が犯人かわかりません」。「さようか。では若い雌牛を連れて来なさい」。川のほとりで雌牛の首を折り、それで犯人がわかるわけではないけれど、殺人犯の代わりにいけにえを処刑することで、忌まわしい事件の余波が、神の怒りが、イスラエルの共同体には及ばない。「良かった。良かった」なのである。「ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』」(ヨハネ1:29)。「長老様、大変です!人々の行ないはまことによろしくありません。このままでは神の怒りがくだります」。「さようか。では神の小羊キリストを連れて来なさい」。ゴルゴダの丘のほとりで、キリストを十字架で処刑し、この方法により、忌まわしい人間の罪の余波が、神の怒りが、私に及ばない。「良かった。良かった」なのである。「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(アモス4:12)。これを信じることこそ、神に会う唯一の備えである。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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