2021年1月10日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司「恵みの時、救いの日」 Ⅱコリント6:1~2人を叱る時にも、「起承転結」があるらしい。こらっ(て咎めて)、ばかもの(と続け)、この前もそうだったじゃないか(一転、先日の例をあげ)、よく考えてから行動しろ(と、とどめを刺す)。パリサイ人、律法学者を批難するイエスにも、このリズムが見られる。「(こらっ)、わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。(ばかもの)、おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。(この前もそうだったじゃないか)、目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。(よく考えてから行動しろ)、おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」(マタイ23:25~28)。私もまた、そとづら、うわべを飾り、内面をおろそかにする。テレビやラジオの身のうえ相談。「〝誠実な人〟にみえて結婚したのに、中身はケチでわがまま、いたわりの言葉ひとつない。騙された。」である。液体の入った器に「おいしい水」のラベル、レッテルが貼ってある。だが器の中身は「毒薬」だ。うわべは透明、無色、無臭でまことにうまそうだ。そこに犠牲者がわんさか出る。〝こらっ〟〝ばかもの〟〝この前もそうだったじゃないか〟〝よく考えてから行動しろ〟と、イエスは訴える。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」(Ⅱコリント4:7)。人間そのものは「土の器」であり、壊れゆく陶器のようなものだ。「土の器」に「愛」のラベル、レッテルを貼っているが、中身は何が入っているのだろうか。イエスは、外側を人に正しく見せようとする律法学者、パリサイ人らに、〝こらっ〟〝ばかもの〟と批難する。イエスが頑ななイスラエル民族に向かって訴えたのはそこである。壊れそうな「土の器」、そこに〝キリスト〟という宝が入っている人生には恐れがない。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」(Ⅱコリント4:7~9)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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