2020年11月29日基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司

「ふるさとの水」 Ⅱサムエル23:15~17

〝暗きより 暗き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月〟(和泉式部)。ようやく月が山の端に登り始めたようだ。心が晴れていれば何の問題もない。しかし、この人生、いつも明るいことばかりではない。落ち込んだとき、希望の揺らぐときには、ふるさとを訪ねてみよう。懐かしい山すそに立って、月を待とう。月の明かりが(まあ、頑張りなさいよ。明るいことも訪れるから…)と、希望の光をほのめかしてくれるだろう。サウル王は冷静な判断を失い、ダビデを殺そうとする。わずかな部下と一緒に荒野をさまようダビデ。悪いことは重なるものだ。宿敵ペリシテ人の包囲網の中、荒野で身動きがとれない。なかば死を覚悟したダビデは思わずつぶやく…。「ダビデはしきりに望んで言った。『だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ』」(23:15)。ベツレヘムはダビデのふるさとである。故郷、ベツレヘムの緑あふれる沃野を懐かしんだ。柔らかな木々の緑、花の香り、冷たい井戸の水…。心が弱くなったとき、彼はただふるさとの水を渇望した。人間にとって生まれ育った土地、ふるさととは何を意味するのだろうか?その土地が、決して喜びに満ちたものではなかったとしても、人は故郷を恋しく想う。今日、人種差別、政治的迫害により、とてつもない数の難民が祖国を追われている。それがいかに無慈悲な行為であるかを、国際社会は認識すべきだ。出エジプトして40年…。あとちょっとで、ふるさとカナンの地へ入るのだが、いかんせんモーセの寿命が尽きようとしていた。モーセの胸には思い浮かぶことがたくさんあった。言い残しておきたいことが山ほどあった。〝40年間、色々言ってきたけど、最後に念を押しておきたい。神を愛し、神に従うように〟と、戒めを述べたのが申命記だ。モーセはピスガの山の頂から、夢にみたカナンを見渡し、従容として死に就くが、人情としては(ふるさと、カナンの大地を踏んで欲しかった)と、私は思う。だがモーセにとって、きっとそれも余計なお世話なのだろう。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが…、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです」(へブル11:13、16)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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