2020年11月22日基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司

「10%の従い」  マタイ7:13~14

小説には読者を喜ばせる決まり技のようなものがある。例えば、10%の期待。ある出来事が起きるかどうか、その確率は決して大きくなない。しかし皆無でもない。まあ10%くらい。このサスペンションの中で物語が進行していくパターンに、読者を興奮させるものがある。アンドレ・ジイドの小説に「狭き門」がある。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(7:13~14)。青年ジェロームが恋人アリサにプロポーズをする。〝二人の結婚以外、魂はどんな幸福を求めるのか〟と問えば、アリサはただ一言〝聖くなることよ〟と答える。何があったのだろうか?アリサはプロポーズを断り、これで満足できるのだろうか?二人が結ばれる道はないのだろうか?確率は小さいが、期待をかけるよりほかにない。聖書のことばが幾つか登場するが、神は二人をどう導くのだろうか?まだか、まだかと待つテンションが、読者の心を引く。そして…ギリギリのタイミングで、〝えっ、来たのか!神のみことばが!〟。一つの決意を固めたアリサはへブル書を引用する。「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたの…です」(11:39~40)。幸福や満足以上に、聖くなること…魂はそれを望む。お話変わって、アブラハムは甥のロトを連れ、小高い山に登り、眼下に広がる谷間を指さす。東にはヨルダン川流域の緑の低地が広がっている。一方、西は赤茶けた岩ばかりの荒野だった。〝好きな方を選びなさい〟。私ならどちらを選ぶだろうか?狭い門から入ろうとするだろうか?逆転の確率は大きくはない。しかし…自分の信仰に期待をかけるよりほかにない。ある日のことである。神の声が天から降り注ぐ。〝ひとり子イサクを、いけにえとして、わたしにささげよ〟。神は本気でイサクを殺せというのだろうか?アブラハムは、狭い門から入ろうとするのだろうか?その確率は?イサクを縛って刃物を振りかざしたとき〝アブラハム、手を放せ。お前の心はしかと分かった〟と、神の声。(試されたのだ!一番大切なものを、神のために犠牲にする覚悟があるかどうかを…)。どんな平凡な人間にも、魂の燃える一瞬はある。ちょっと悲しいけれど、せめてそのくらいのことがなければ、俺たちの人生はやりきれない。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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