2020年11月15日基督聖協団目黒教会 都丸道宣牧師
「神に喜ばれる聖めと愛の日常」テサロニケ人への手紙第一4章1節〜12節
テサロニケの地方では性的な不品行や誘惑は特別珍しいものではありませんでした。家族や夫婦の繋がりがそれによって破壊され、教会内にもその混乱が入ってきていました。それに対抗できるのは聖さへの求めであるとパウロは勧めました。日本にもこのような混乱はあります。性的な道徳は薄れ、家族などの小さな信頼すべきコミュニティはその攻撃にさらされ、繋がりは軽視されています。また、性的な不品行は旧約聖書時代から信仰の乱れと同一視され、偶像礼拝の罪として神の裁きの対象とされました。わが国でも神々は多く存在し祟拝されるという乱れた宗教観があります。パウロの言葉から目が開かれる必要があります。神の元に帰れ。聖さを求めて、信愛すべき主の御許に戻れ、との真実な訴えに耳を澄ませましょう。
また再臨の期待の中で、日常生活に破綻してしまう信徒がテサロニケ教会では出てきました。愛の奉仕は他に類を見ないほど素晴らしいテサロニケ教会でしたが、一部の熱狂的な信徒たちがその熱心を人を裁いたり、自分だけが特別であるかのように振舞ったりしたのか、自らの手で働き、生計を立てることをやめてしまったのです。再臨が来るためだ、それに備えるためだ、と真剣に取り組むのはいいように見えますが、パウロはそうではない。日常を大切にし、働いて稼ぎ、落ち着いた生活をしなさい。そうすれば教会外の人々に品位を示すことが出来る。その中でますます愛の行動において満たされていきなさい、と言っています。
宗教的熱心によって日常生活はむしばまれることはありません。むしろ愛の奉仕と自分で働くこととは両輪のように同時に動くことで機能するようです。
心の内側、自分の外側、教会の内側、教会の外側へと、聖さと愛が広がり神様に喜ばれるように私たちもなりたいと思います。悪い情報はいつでもどこからでも入ってきます。もしその悪影響だけに目を留めるなら私たちはむしばまれます。しかし私たちはそうではない、良いものを見つけ出すことが出来ます。神は良いものを備えてくださるお方です。その方の喜びから目を離すなら、私たちは悪に目を留め、心は囚われ、自由を失い、日常とは破壊や痛みや苦しみばかりだと思い込んでしまいますが、神の喜びに目を向け、心ささげるなら、聖さと愛に満たされるのです。日常の何気ないところから、あらゆる領域に、聖さと愛が満たされるよう求めましよう。すべての悪から離れ、神様の喜ばれることを思い、イエスさまに満たされた日常を過ごすことが出来るよう期待し、祈り求めましょう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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