2020年11月8日 基督聖協団目黒教会牧師 横山さおり 

「律法」  ローマ2:17~29

ユダヤ人は神に選ばれた民であり、神と契約を結んだ民である。彼らが神に従い、心を尽くして神により頼むなら、神は彼らをどんな強国からも救い出した。疫病からも災いからも守ると約束された。神は彼らにご自身の御心を文字に現わした律法をお与えになった。まことの神だけを礼拝し、この神を愛することを命じ、隣人を顧み、人を傷つける行為や考えを禁じられた。神の弱者に対する擁護は慈愛に満ちていた。気高く尊い神の御心を律法のかたちで知らされたのは、選民ユダヤ人だけだった。律法が与えられたことは、選ばれたユダヤ人が神に従う義務をも与えられたことを意味した。だが、律法を守ること、それは罪ある人間にとっては困難なことだった。罪は人の心を縛り上げ、律法を守り行うことを阻んだ。ユダヤ人は何度も不従順の罪のために、民族的な危機に陥った。だが真実な神は、ユダヤ人が神に助けを叫び求めるとき、必ず災いから救い出された。ユダヤ人は幾つもの強国の支配に屈して蹂躙され続けたが、そんな苦しみの中でも神の守りと律法が、彼らが選民であることを保証し、保持させた。ユダヤ人には選民としての誇りがあった。彼らの罪は、その誇りが律法主義となり、彼らを高慢に導いたことだ。罪という点においてはユダヤ人も異邦人も同じ罪人であるにもかかわらず、高慢の虜となった彼らは異邦人や罪人を見下し軽蔑した。パウロは、律法を与えられて神の民となったユダヤ人が罪を犯すことで、彼らは神の御名を汚し、神を侮辱していると非難する。律法は持っていることに意義があるのではなく、神の律法を守って初めて神の民として正しく生きることができるのである。神の民として施すようにと命じられた割礼も、律法を守らなければ神の民としての意味はない。イエスは「パリサイ人のパン種に気を付けなさい」と仰った。高慢になり、自分は学ぶことをせず、人の目の中の塵ばかりを指摘して自分の目の中の梁には気がつかない。そのような状態に陥れば、神に反逆して神の御名を汚す大罪を犯す危険性があるのは当然である。高慢の罪は人の心に音もなく忍び寄り、イースト菌のように心の中で膨らみ大きくなる。神の御前に大罪を犯すことがないように、神の憐れみを求めて生きよう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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