10月25日「愛と聖さを求めて」聖協団目黒教会 都丸道宣牧師

テサロニケ人への手紙第一3章11-13節
テサロニケの人々に会いたいという思いは実現しないながら、パウロはイエス・キリストによって父なる神をあがめる兄弟姉妹にされたことに喜び、祈りをささげます。父なる神ご自身が道を開いて会わせてくださるだろうことを期待して再会を主にゆだねます。日々の信仰の戦いに負けないで、日常の重荷に信仰を諦めないで、次に会うときにはより良いお互いとして会えることを楽しみに、パウロは投げかけます。それはさらなる愛の成長を期待しているからです。テサロニケの信徒たちの愛が信仰の先輩でもあるパウたちと同じようになれることを期待しているのです。神に愛され、イエスさまに見守られ、聖霊に導かれ、愛はイエスさまの身丈に至るほどに成長していきます。自分の打算的な愛ではなく、意図的な見返りを予期する愛ではなく、神の無償の愛を心に体に迎える日が来るのだという大きな展望に立った愛です。私たちの愛は時に人から奪うような愛です。自分が気持ちよくなる影で誰かを貶めかねない自己中心的な思いに満たされています。しかし、その悲しさを知っているかのように、パウロは天からの愛を、人間の思いを越えた愛を祈り身に着けることが出来るように、と途方もない願いを祈っているのです。その愛で教会が満たされ、その愛で所属する共同体が満たされるなら…。神さまご自身の聖い愛に私たちが満たされるなら、まだ見たこともない地域や共同体にもその愛があふれ流れていきます。その事をパウロは夜昼祈っているのです。そして、やがてイエスさまがご再臨されるときには、地上が終わるときですが、すべての信徒たちが聖なる者となることまでを祈っています。愛の成長とともに、あらゆる迫害や痛みや苦しみを通ることもあるでしょうが、そのたびに心が強められて、イエスさまの再臨の時にはふさわしく聖なる者として、責められることない者として終わりのときを迎える準備が整うのです。聖さというのは完全なる愛の中に入るということです。この世の価値観に心奪われることがなくなるということです。天のお父様の愛の内にこの世から分けられて、イエスさまの似姿に変えられていくということです。しかし私たちはこの地上にいる限りは様々な汚れの中を通って歩んでいます。ですから、日々イエスさまの十字架によって、洗い聖められる必要があります。日々、聖書を読み、祈りの中で、この素晴らしい聖さを受けるために、神の大いなる愛を感じながら、汚れを洗いきよめられながら、キリストの似姿へと変えられる希望に渇いて歩んでいきましょう。 

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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