2020年10月18日基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「神を求めさせるために」 使徒17:26~27「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません」(使徒17:26~27)。文化や言語、習慣が異なっても、世界中のすべての人が、同じ「ひとりの人」、同じ祖先を持っているとパウロは訴える。私たちは日本人である前に、同じひとりの祖先を持つアダムの子である。アダムの前に、ふたつの選択肢があったと創世記は記す。神のことばに従うか、神に背き、禁断の世界に身を染めるのか…。私たちアダムの子らの眼の前にも、このふたつの道が拡がっている。エジプトにスフィンクスの伝説がある。顔は人間、からだはライオン姿のスフィンクスが、旅人になぞかけをする。〝朝は四本足、昼は二本足、夕方は三本足で歩く生きものは何か?〟の問いで、答えられなければ殺されてしまう。答えは人間の一生である。赤ん坊が這い這いする四つ足に始まり、やがて立ち上がって二本足、老いると杖をついて三本足というわけだ。この程度の問いは小学生でも答えられる易しいなぞかけだ。首をひねって〝わからない〟では困る。難しくて答えに窮するのは〝朝は四本足、昼は二本足、夕方は三本足で歩く生きものは、何のために生まれ、何のために生きるのか?〟の問いである。現代の私たちも、答えられずに殺された旅人と同じ羽目に遭いそうだ。何のために?このなぞときに答えられねば、生きる資格がないと、スフィンクスが訴えているかのようだ。何のために?聖書の答えは「神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだす」(使徒17:27)と、いたってシンプルだ。難しいことなど何もない。「樹を伐るのに忙しく、斧を顧みる暇がなし」との言葉がある。「樹を伐ること」、つまり慌ただしい日々の仕事に心が奪われ過ぎ、伐っている「斧」、すなわち自分の心を顧みることを忘れ、気づいたときには斧の刃は欠け、心はボロボロになっている。「忙中閑有り」、忙しさの中にあっても、自分の心を潤し、心を労わる時間が必要だ。自分の心に〝朝は四本足、昼は二本足、夕方は三本足で歩く生きものは、何のために生まれ、何のために生きるのか?〟を問う時間が必要なのだ。
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