2020年9月28日基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司「真理への奉仕者」
へブル10:1~10「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。…キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです」(へブル10:1~10)。教会は、持てるすべてのものを総動員し、神の思いが明快なかたちとなり、人間たちに示されたキリストを、わかりやすく伝え、証しする。人間は、乏しいながらも色々なものを持っているはずだ。イエスは言われる。「ある父親にふたりの息子があった」と。イエスは、この罪深い放蕩息子と、これを深い愛で受け止めた父の姿を、神と人間との関係に結び付け、父なる神の御心を示そうとされた。こうした家庭の話は、自分の家族の中でも起こりうることで、このような素材が誰の人生にもあるはずだ。へブル人への手紙は「へブル書神学」と呼ばれ、独特なユダヤ教的思想体系を有し、律法的動物犠牲と密着している。これがこの著者の手持ちの材料、彼の持てるものである。民数記に次のような記事がある。「長老さま、大変です。町はずれで人が殺されています。誰が犯人かわかりません」。「さようか。では雌牛を連れて来なさい」。殺人犯を処刑する代わりに、雌牛の首を折る。これにより、忌まわしい流血事件の余波が、神の怒りがイスラエル民族に及ばない。よかった、よかった、なのである。ユダヤ人は長い間、こうした考え方に慣れ親しんできたし、彼らにとっての手持ちの材料である。この手持ちの材料を、キリストの十字架と結び付け、福音をわかりやすく伝え、証しようとした。人間の心は乏しいもので、つまらないものしか持っていない。新約聖書が訴えたのは、「律法」はむなしく、つまらないものだと言うこと。今、むなしい律法が、むなしくないお方を指し示し、証しようとしておられる。教会は、いま持っているもので、キリストをわかりやすく伝えることだ。手持ちのものとは、もともと大したものではない。皆さんが今日まで体験してきたこと、家庭で、職場で経験したことはすべて手持ちの材料である。私自身、今年に入って経験したこと…鬱病を患い入院したことも、意識が飛んで転倒、骨折したことも、血液系の難病の悪化…すべてむなしいものである。そのむなしいものがキリストを指し示す。それが生きる苦難の意味であり、むなしい経験が真理の奉仕者となる。これがキリストにささげた生涯である。