基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司「恐れるな!」 黙示録1:17~19
世界の宗教を三つの系譜で現わすことができる。ギリシャ的、インド的、聖書(ヘブル)的である。ギリシャもインドも〝永遠性〟を強調し過ぎたあまり、歴史や時間、肉体を軽んじる結果を招いた。仏教では〝輪廻〟の思想がある。車輪がグルグル回るように、何度も何度も繰り返すことだ。輪廻は呪いであり、生まれては死に、生まれては死に…この世界から解脱することが救いであると説いている。一方ギリシャも〝永遠〟だけが重要であり、人間が生きたり死んだりする歴史はバカのように扱われる。プラトンによれば、本来人間は永遠の世界に生きていた存在であり、これがイデアの世界である。ところが堕落した人間は、天の国から地上に転落し、時間と肉体との中に閉じ込められてしまった。プラトンは粋な掛け言葉を用いて〝ソーマ(肉体)は、セーマ(牢獄、墓場)である〟と言っている。つまり、肉体を持ってこの世界に生まれ、歴史の中を歩むとは、墓場、牢獄に閉じ込められるような呪わしいことだと訴える。「わたし(イエス)は死んだが、見よ、いつまでも生きている」(黙示録1:18)。〝わたしは生まれ、人々と共に生き、そして…死んだことのある永遠者だ〟とイエスは訴える。フォーサイスの言葉に「キリストは、死ぬことだけではなく、生まれることも決断しなければならなかった」がある。死を目的とした誕生であったため、生まれる決断を必要としたのだ。ヨハネはキリストを〝ことば〟と呼んだ。「ことば(キリスト)は人(肉体)となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)。「最初(アルファ)であり、最後(オメガ)である」(黙示録1:17)永遠者キリストが、肉体を身にまとい、私たちの間に住み、時間を共にしてくださる。ガリラヤの自然は美しかったが、人間の生活はみじめだった。隣人や家族からも見離された病人や不具者がイエスの周りに大勢いた。宗教家たちから蔑まれた収税人や遊女のような男女と、イエスは共に歩まれた。町や村に近づくことを許されぬライ病人たちは、神の罰を受けた不浄な者とみなされたが、キリストは肉体となって彼らの間に住まわれた。そのお方が、今日も、肉体と時間に支配された私と共に歩んでくださり、「恐れるな」(黙示録1:17)と語りかけておられる。