2020年8月16日基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
どのような〝動機〟〝モチベーション〟で、「大ぜいの群衆がイエスにつき従った」(4:25)のか?それは、非常に分かりやすいものだった。「イエスはガリラヤ全土を巡って…民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた」(4:23~24)。つまり、不幸の解決を求め集まって来たのだ。罪の赦しを求めてとか、神の栄光を現わすためイエスに仕えようと集まった者は皆無だった。自分の幸福を求め集まったのであり、イエスは彼らの思いを受け止め、「…民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」(4:23)。つまり、この時点で聖書が一番初めに登場させた求道者たちは、日本のご利益宗教と五十歩百歩だった。イエス自身、このような人間の性(さが)と向き合い、これを全面的に受け止めるなら、十分に、真実の救いを伝える信仰になり得ると考えたのではあるまいか。人間にとっての最大の関心事、不幸の問題の解決。その材料に乗っかって、真の救いが私のもとに届いたのだ。〝幸福の追求〟…イエスはここから私の信仰を始めさせて下さった。飽くなき幸福の探求、これは入り口であり、スタートラインである。自分の幸福を求め、走っているうちに、「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒20:24)、ゴールが近づくほど、福音の事実が絶大な関心事となっていく。こういう走り方でなければ、私の信仰は成り立たなかっただろう。イエスは、私の不幸の問題をしっかり受け止め、「…民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」(4:23)。イエス自身、これと向き合わなければ、先に進めようがなかったのではあるまいか。もちろん、このスタートラインの時点から、最後の最後は、自分の肉を裂き、血を流して十字架につけられ、それにより人間の罪の問題を解決し、神の栄光にまで結びつけると睨んでおられた。しかし、スタート時点では、民衆の絶大な関心事、幸・不幸の問題以外に結び付きようもないし、結び付けようもなかったのではあるまいか。だから、それでいい…。「人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた」(4:24)