2020年7月26日基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「どんでん返し」 ルカ18:10~14
短編小説の評価は〝最後の一行〟〝鮮やかなどんでん返し〟などとよく言われるが、実際、内容的につまらないものも少なくはない。男だと思っていたのに、最後で実は女であったとか、地球上の出来事だと思って読んでいたら、どこかの惑星の話だったとか、感銘するようなしろものではないケースも多い。〝どんでん返し〟は、ただ大きくひっくり返して驚かすことだけが第一義ではない。この種の美学は、ひっくり返ったとたんに、一条の光が射し込む、その光の中に、それまでには見えなかったもう一つの人生が、人間性が鮮烈に映る。「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ」(レビ記16:21~22)。私はやぎの頭に両手を置き、自分の罪を告白する。(牧師の私は、スピード違反で捕まったとき〝会社員です〟と、嘘をつきました…)。やぎは私の罪を背負って荒野を彷徨い、やがて野垂れ死ぬ。誰かの犠牲の上に生きる姿勢である。きっと私も、誰かの犠牲の上に生きているのだろう。「荒野・不毛の地」(新改訳)、「人里離れた荒野」(口語訳)。これらは完全な孤独の世界を象徴した表現だ。この孤独の世界が、神不在、神なき所であったことは、小羊イエスが、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれたことのなかに示されていた。この叫びは本来、私の叫びであったはずだ。私の罪を背負ったイエスが、「不毛の地」「人里離れた荒野」に追いやられたのだ。あるいは、私が追いやられていた荒野に、イエスが来て下さった、と言い直してもよい。イエスが共にいて下さる所は、もはや孤独の荒野ではない。「イエスは、彼に言われた。『…あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます』」(ルカ23:43)。「なぜ、見捨てたのですか」と叫んだ次の瞬間、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいる」と言う。これは処刑されつつある犯罪人に向かっての語りかけだ。子羊イエスは、この犯罪人と一緒にいることにより、神に見捨てられた孤独の荒野をパラダイスに変えて下さった。〝最後の一行、鮮やかなどんでん返し〟であり、神に見捨てられた孤独の荒野が、パラダイスに通じていた。これぞ鮮やかなどんでん返しである。1人が既読いいね!コメント