2020年6月28日基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「〝驚き〟を取り戻すために」 出エジプト記4:24~26「さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。そのとき、チッポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。『まことにあなたは私にとって血の花婿です。』そこで、主はモーセを放された。彼女はそのとき割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである」(出4:24~26)。これは頭痛の種になりそうな記事だ。神に襲われて殺されかけた人間が、どういう行動をとるものなのか?これを理解するため、一つのみことばが必要だろう。「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」(ヘブル9:22)。イスラエルの宗教は「血を流す宗教」であり、特に顕著なのが、罪のための生け贄である。旧約から新約に至る、数千年の聖書の歴史は、血を流さなければ罪は赦されない、誰が血を流すのか…このテーマ探求のための歴史であった。そして、この探求の歴史のはじまりが、モーセの妻・チッポラの行為である。男の子の包皮の血をモーセの両足につけ、夫を罪の刑罰から救い出したのだ。それにしても、なぜ神はモーセを殺そうとされたのか?モーセの罪とは何なのか?過去にモーセはエジプト人の現場監督を殺害する罪を犯していた。そして皮肉なことだが、そのモーセが後に「殺してはならない」の十戒を授かる。現代の刑法でも、殺人は自らの命で償わなければならない。「主はモーセ…を殺そうとされた」(出4:24)のは、神の律法がモーセの命を求めて来たのだ。罪の赦しは、誰かが犠牲となり、血を流す。この冷酷な現実の上に成り立っている。ユダヤ民族は、このテーマ探求のために選ばれた民で、チッポラの行為はその先駆けであった。「まことにあなたは私にとって血の花婿です」(出4:25)は、キリストを連想させる。新約聖書では、キリストが花婿、教会が花嫁に譬えられているからだ。キリストは三位一体の第二格、人であると同時に神そのものだ。キリスト、即ち神が死んだ!教会はこの驚きに撃たれ続けなければならず、教会の課題は、この驚きを取り戻すことだ。そして、教会がこの驚きを取り戻すため、不可解なことが起こる。「さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた」(出4:24)。聖書は深い配慮をもって、教会の怠惰な心に渇を入れ、奇妙、不可解なテキストからキリストの十字架を指し示す。