2020年6月7日基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「本当の解決」 創世記9:11「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」(創世記6:5~6)。神は、「地の面から消し去ろう」(6:7)とされる者たちのことを思って、「心を痛められた」(6:6)のだ。そして、この「痛み」は、「救いの箱舟」となってノアとその家族たちとに示されようとしていた。この「痛み」は、生命を与えようとする神の意志(愛)と、人間を悪のゆえに地のおもてから消し去ろうとする神の意志(怒り)とが、複雑微妙に結びついたところに「神の痛み」が生じていた。雨は洪水となり、箱舟の外ではすべての者が息絶えた。神の声がノアに届く。「わたしは、決して再び…すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい」(8:21)。これは神と人間との契約で、そのしるしが「虹」(9:13)であった。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ」(8:21)、端的に言って「虹の契約」は、「神の忍耐」に支えられている。パウロは言う。「神は…今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです」(ローマ3:25)。つまり、ノアの洪水後の人間の歴史は、「神の忍耐」のもとに支えられて来た。「忍耐」するときには、怒りをあらわにしているわけではないが、しかし、愛しているわけでもない。「忍耐」は、怒りの停止であっても、愛の発動ではなく、中途半端な不徹底な解決に過ぎない。世界がキリストの救いに到達するまで、人類は「神の忍耐」のもとにあったように、キリスト以後に生まれた人間も、イエスを救い主として受け入れなければ、その人は今も「神の忍耐」のもとにある存在だ。「罪を神の忍耐をもって見のがして来られた」(ローマ3:25)などという不徹底な解決を語るのは何故か?それは「忍耐」という不徹底さの背後を、キリストの十字架という徹底的な解決で支えられているからだ。不徹底を不徹底として露呈するのは、背後にある徹底的解決への信頼が可能にする。キリストの十字架は、罪に対する徹底的な神の怒りの発動であると同時に、罪人を赦す神の徹底的な愛の発動でもあった。「神の痛み」が完全な解決の姿をとったとき、旧約の虹の代わりにキリストの十字架が立てられた。