基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司

「待つ」 ヘブル11:1~2  

ユダヤ人は〝待つ民族〟であり、このテーマ探求のために選ばれた民族である。旧約聖書はイザヤ書のみならず、多くの預言者がキリストの到来を待つようにと訴える。それに応えて―さあ、現われましたよ―と、登場したのがナザレのイエスであり、そこから新約聖書が始まる。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる」(イザヤ9:6)。すでにイザヤの預言から七百年以上の歳月が流れていた。ユダヤの民衆は、救い主の出現を待ち続ける。実に七百年間であり…考えてみれば、五百年前も、三百年前も、百年前も、今と同じ冷たい風が吹き、ひどい貧乏と飢え、無知と悲哀、暗闇と閉塞感、不安と恐怖が周囲を満たしていたに違いない。預言者は、その実情を端的に訴える。「彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者」(イザヤ8:21~22)。だが暗闇と不安の中で〝人生が良くなるなんてありえない〟と、暗澹たる思いに苛まれていたわけではない。目の前の悪い条件に対し、待ち続けるなら、光は必ず射すだろう。決してマイナスに圧倒されない生き方を訴える。なんたって百年はおろか千年単位で続いている閉塞感であり、不安と恐怖である。ユダヤの悲劇…それはエジプトによる侵略に始まり、アッシリア、バビロン、ペルシャ、十字軍、サラセン、マメルク、オットーマン・トルコ…。百年はおろか千年単位で続く不安と恐怖である。この先も変化するとは考えにくく、希望を失って当たり前の状況である。

だが、あきらめなければ、なにかが…遠くに黎明が、夜明けが…今すぐにではないけれど、やがて人生に調和が訪れるのではないか。〝待つ〟ならば、ほの見えてくるものがあるのではないか。七百年間〝待つ〟ことを訴えたイザヤが預言しているではないか。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(イザヤ9:1~2)。〝待つ〟ならば、来るべき救いは必ず訪れる。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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