2019年12月8日

「召命」  ピリピ3:13~14

基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司

自分の良心と理性にかけて「私はキリストと出会った」と告白する人に対し、教会にも嘘をつく人もいるだろう。理性のくもっている人もいるだろう。だが、その人の人柄と行動をつぶさに観察して、(こりゃ、やっぱり彼はキリストと出会ったんだ)と思うことがある。

パウロはキリスト教徒を弾圧するため、ダマスコに向かっていた。すると、ダマスコ途上で復活のキリストと出会う。イエスの声を聞く。「サウロよ。なぜ、わたしを迫害するのか」。復活のイエスと出会い、パウロは回心し、熱烈なキリスト教徒となる。「砂漠の熱気に当てられ、頭がおかしくなったんじゃないの」。幻視であり、幻聴であったと想像するのはたやすいけれど、問題はそれ以後のパウロの行動だ。本当にただごとではない。ありとあらゆる苦難に耐え、彼はキリストの教えを伝え歩いた。とても人間技とは思えない労苦を自分に課しながら。(やっぱりパウロは、ダマスコ途上でイエスを見、イエスと出会ったんだろうな)、神の顕在を素直に信じてしまう。人間は他人を騙すことができても、自分を完全に騙すのは難しい。自分の理性は自分の中で生きている。理性的な人間なら、自分のことはことさらよく知っている。パウロは間違いなく優れた理性の持ち主であり、そのパウロが、生涯を通して命がけの布教に殉じえたのは、パウロの心の中に(自分はあそこでイエスと出会い、イエスの召命を受けた)という固い、固い確信があったからだろう。(あれは幻聴、幻視だったかもしれんな。あの日は体調も悪かったし…)。少しでも疑いがあったら、長い年月にわたって、あれほど執拗な努力は続けられなかったのではあるまいか。長い歴史の中には、パウロのように、神の啓示をまともに受ける場合があると、私たちが信ずる所以である。

パウロのことばである。「私は、人間的なものにおいても頼むところがあります」(ピリピ3:4)。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」(3:7~8)。「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(3:13~14)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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