2019年12月1日

「愛がないなら」  Ⅰコリント15:1~2

基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司

イエスの話に、裕福な家に生まれた兄弟が登場する。「放蕩息子」の譬えだ。 「『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った」(15:12)。この台詞が言える男は優しい人ではあるまい。相当に身勝手な、打算的な男であったに違いない。心の相当深い部分において、反倫理的、反人間的であることは想像に難くない。その強引さと執念、遠い国に移住する行動力を兼ね備えた強そうな男が、本当の意味で強い男になり得なかったが、それはイエスの人間観察、あるいは人生哲学のようなものだったのかもしれない。「放蕩」とは、酒や女遊びに溺れることだ。いい年をした男が女に迷い、財産を失い、どんどん泥沼へと堕ちていく哀れさが、イエスの譬えを通して実感される。大人のための道徳教育の教本に加えてもよさそうな譬えだ。それなりの社会経験を積んだ男が、なぜつまらぬ女に手もなく騙されてしまうのか。おそらく人類の歴史が始まって以来の難問なのだろうが、答えのひとつとして、人は何のために生きるのかとの厳粛な問題ともこのテーマが関わっている点も見落とせない。生きる意味などあまり考えたことのなかった男がいた。そんな男が大金を手にし、刹那の願望を満たす悪魔的な力に身を委ね始めた。生まれて来た以上、遊びの喜びをとことん享受したい、嘘でもよい、地獄に落ちても構わない、この瞬間に感じられる喜悦をできるだけ多く、できるだけ長く味わわなければ生きて来た甲斐がない。「それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった」(15:13)。よし、それが大変な誤解であるにせよ、落ちるところまで落ちてみなければ、男は「我に返った」(15:17)、我に返ることはなかったのだろう。生きる意味を見いだすために、この虚しいプロセスが必要だったのかもしれない。

さてイエスはこのタイミングで、勤勉ではあったが愛のない兄を、満を持して登場させる。どんなに真面目で立派でも、愛がないのは致命的な罪である。聖書にそう書いてある。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません」(Ⅰコリント13:1~2)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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