2019年10月27日

「摂理(神の意志)か? 偶然か?」 Ⅰサムエル6:9,12

基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
神は〝粛々〟と救いの計画を進めておられる。〝粛々〟とは、必死の覚悟で取り組んでいるが、周囲にはよく解らないとの事情である。  

歴史を導く神の意志を〝摂理〟と呼ぶ。十字架は神の摂理か、それとも突発的処刑、単なる偶発的出来事か。〝摂理か? 偶然か?〟キリスト教信仰の重大問題である。

〝進化論と創造論〟もこの延長線上のテーマだ。神の意志か、偶発的発生か。

契約の箱がペリシテ人に奪われた。それ以降、町にはひどい腫物がはやってペリシテ人を悩ませる。箱を別の町に移せばここでも悲劇に襲われる。もう一つの町に移しても、さんざんな目に合う。「これは単なる偶然か? それともイスラエルの神の意志か?」の議論が始まり、それを知ろうというわけだ。「あなたがたは、箱がその国への道をベテ・シェメシュに上って行けば、私たちにこの大きなわざわいを起こしたのは、あの箱だと思わなければならない。もし、行かなければ、その手は私たちを打たず、それは私たちに偶然起こったことだと知ろう」(Ⅰサム6:9)。母牛に契約の箱をくくりつける。本能に従えば、母牛は子牛のもとにとどまるだろう。本能に反してベテ・シェメシュの町へ向かえば、わざわいは偶然ではなくイスラエルの神の意志によるものだとペリシテ人は考えた。「すると雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一筋の大路をまっすぐに進み、鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった」(Ⅰサム6:12)。ペリシテ人はまことの神を信じておらず、この神の意志により歴史が導かれているとは考えなかった。歴史も人生も偶然性によって支配されていただろう。だが結果的にペリシテ人は、歴史がイスラエルの神によって導かれていることを肯定するに至った。

〝キリストの十字架〟これは突発的、偶発的出来事か? それとも神の意志の現われか?人間にはアダムとエバに端を発する〝罪の問題〟がある。私たち人類は厄介な問題を突きつけられているが、「その問題については解決に向け、粛々と努めております」。それがヨハネ3章16節である。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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