2019年10月20日
「荒々しい愛」 申命記6:25
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
出エジプトしたイスラエルの民がカナンに侵入し、先住民と接触するとき、彼らは異なる神々にこころ変わりする誘惑にさらされる。イスラエルの神は〝妬む神〟であり、妬みの愛はこの誘惑に厳しい警告を発する。それが申命記6章の〝シェマー・イスラエル〟だ。
「聞きなさい(シェマー)。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい」(申命記6:4~6)。
イスラエルは今、神が提示する愛の中に飛び込もうとしていた。その愛の形は決して人当たりの柔らかいものではない。「ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。あなたのうちにおられるあなたの神、主は、ねたむ神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面から根絶やしにされないようにしなさい」(申命記6:14~15)。
旧約聖書は、こうした〝荒々しい愛〟について、よく考えるように訴える。裏切られれば、わめいたり、皿を投げたりする〝荒々しい愛〟である。愛は本来、きれいごとでは済まされないものなのだろう。〝シェマー・イスラエル〟の精神は、ここまで達していた。
だが正直に言おう。私自身こうした〝シェマー・イスラエル〟の精神に圧倒され、(オレみたいな人間には、気の強い神さまはダメだ…。もっとおとなしくて、優しいのがいい)と、つぶやくのは本当だ。自然界の動物を眺めていると、みんななにかしら自分を守る手段を持っている。鋭い歯、速い足、空を飛ぶ術…。根絶やしにされないように、人間は人間なりに自分を主張し、自分を守る術を持たねばなるまい。人間が自分を守る術は、キリストを信じることだ。「働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」(ローマ4:4~5)。愛の働きも、愛のわざも、何の働きもない不敬虔な者、二心の者をも義と認め愛してくださるキリストを信じるなら、その信仰が義とされ、〝良し〟とされるだろう。これが新約聖書のメッセージだ。だがそのときキリストは、十字架に掛けられ、神の怒りを静めねばならなかった。十字架の愛は、そのような激しさと荒々しさに裏打ちされていた。