2019年10月6日

「一粒の麦」   使徒28:30~31

基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司

パウロは自らローマ市民であることを強調し、ローマで裁判を受ける権利を行使した。―とうとうローマへ来た―。パウロの感慨はひとしおだったろう。「こうしてパウロは満二年の間…たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」(使徒28:30~31)。パウロは西暦62年ローマに護送され、満二年間軟禁された後、首を刎ねられ殉教、波乱に満ちた生涯を閉じている。 パウロ殉教の契機となった西暦64年は、ローマの大火が起きた年である。当時の皇帝は悪名高きネロで、臣下に命じて火を放った張本人だ。皇帝ネロは異常性格者であった。アウグストゥスによって始まったローマの帝政は、ティベリウス、ガリグラ、クラウディウス、そして皇帝ネロへと引き継がれたが、その帝位継承は血まみれのドラマであった。皇帝の周辺には、陰謀、裏切り、密告、報復、姦通、毒殺…ありとあらゆる悪徳が渦を巻いていた。タキトゥスの「年代記」によれば、「皇帝ネロはあらゆる淫行で身を汚し、背徳の限りを尽くし、果てには男色仲間と盛大な結婚式を挙げた」と記す。さらにスエトニウスの「ローマ皇帝伝」にはネロの悪行が次のように列挙されている。「放埓、淫欲、驕侈、貪婪、虐殺…、母親アグリッピナとの性的関係を欲した話は有名である。ネロは金銭を施すことにも、奪うことにも節度というものがなかった。ネロはどんな理由にせよ、これと決めた人を殺害するのに手加減を加えることなどなかった。自害を命じた者には、一時間を超える猶予も与えなかった」。常軌を逸したネロは、新しい妻を迎えるため正妻オクタビィアに不倫の罪を着せて処刑、さらに母親アグリッピナにはクーデターを画策したとして殺してしまう。パウロがこの世の最後の旅路として、神に導かれたのがここローマであった。

パウロが求めた宣教の舞台は、豊かな国際都市、大都会であった。大都会…そこはいつの世にあっても不道徳に汚染されている。魂が蝕まれていても、それとは気付かず悪を重ねる人々が多数ひしめいていた。そういう土壌にこそイエスの教えを説かなければならない。パウロの最後の旅路が、大都市ローマを目指したのもそのためだった。ローマは退廃の底に沈み、享楽の巷であればこそ、そこから救いを求める魂も多数存在するに違いない。ローマはパウロにとって「良い地」(マタイ13章8節)であったに違いない。「種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ」(マタイ13:8)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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