2019年9月29日

「インマヌエルとサバクタニ」 マタイ1:23,27:45

~46  基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司

聖書には「インマヌエル・アーメン」との言葉がある。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」(マタイ1:23)。ふっと寂しくなったとき、人間は「インマヌエル・アーメン」と祈ってきた。すると、全能者が私のそばで見守ってくれている平安が心にやってきた。これはまことに「メリー・クリスマス」でおめでたいことだが、実は「インマヌエル・アーメン」はキリストの十字架と結びつく。

「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マタイ27:45~46)。十字架上で何が起きたのか?「インマヌエル・アーメン」、イエスと共におられた神が、イエスを見捨て、イエスのもとから離れ去った瞬間だった。「イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた」(マタイ27:46)。

「インマヌエル・アーメン」と「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」とが結びつくとき、聖書のメッセージは絶妙の色合いを帯びる。

「インマヌエル・アーメン」、永遠の初めから三つにして一つ、父と子と聖霊が煌々と輝き、愛と知恵と恩寵の光を放ってきた。三位一体を讃える天使の賛美が甘やかに響く。だが、悪夢のような瞬間はついにやって来た。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。父なる神、助け主なる聖霊が、初めて首を振りイエスを見捨てた瞬間だった。まさに「肉を斬らせて骨を絶つ」。自ら痛手を負い、敵サタンには倍返しの捨て身の覚悟だ。

本来「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の叫びは私自身の魂の叫び、心の叫びである。イエスが私に代わって「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでくださったことにより、神は私にとって「インマヌエル・アーメン」となられた。「神は私とともにおられる。それは真実である」。

これがクリスマスの約束である。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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