2019年9月15日

「傷跡」ルカ2:26~35

基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司

鎌倉時代の歌人・吉田兼好は「徒然草」の中で、友として悪いタイプを七つあげ、そのひとつに〝病なく、身強き人〟をあげている。体が丈夫な人は弱い人への同情心が薄く、これが隣人として困るのだと述べている。

―ようやく我が子イエスが帰って来た―でも屍となって。どんな母でも辛い。「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう」(ルカ2:35)、まさにシメオンの預言通りである。ここから〝マーテル・ドロローサ〟(病める母)との言葉が生まれた。母マリアの眼に、これほど痛ましい死はなかっただろう。

究極的な人間の苦悩とは何か?人間、誰しも孤独であり、人は皆、結局ひとりぼっちである。人間がもし、現代人のように孤独をもてあそばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直に己の内面と向き合うならば、その心はある存在を求めている。愛に絶望した者は、愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心のどこかで探している。それは感傷でも甘えでもなく、人間の生きる条件である。

マリアが痛みと悲しみの真っただ中にあったとき、彼女とまったく同じ心境に陥っておられた存在があった。独り子イエスを失われた父なる神である。

独り子イエスは、最も惨めな形で死なれた。人間が味わうすべての悲しみ、痛みを十字架上で味わわねばならなかった。「ごらん。わたしがそばにいる。わたしもあなたと同じように、いや、あなた以上に苦しんだ。だから、あなたの悲しみは、わたしにはわかる。なぜなら、わたしも、それを味わったから…」。人間にとって一番辛いのは、貧しさや病気ではなく、それら貧しさや病気が生む、孤独と絶望のほうである。だからイエスは約束された。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)。

シメオンの預言によれば、「剣があなた(マリア)の心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです」(ルカ2:35)とあり、最後、不思議な言葉でこのエピソードが閉じられている。誰の心にも傷があり、一本の剣で刺し貫かれているのだろう。 太宰治の言葉だ。「〝優秀〟の〝優〟とは〝やさしい〟という字だ。また〝優しい〟とは〝人が憂える〟と書く。憂いを持たない人は優しい人になれない」。心の傷が、優しい思いとなって現われるのだろうか?「それは多くの人の心の思いが現れるためです」(ルカ2:35)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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