2019年9月8日

「恵みと責任」 マタイ20:1~16,25:14~30

基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司

イエスの譬え話、「ぶどう園で働く労務者の譬え」、「タラントの譬え」に注目したい。

最初の「ぶどう園で働く労務者の譬え」は奇妙な話だ。早朝6時から夕方6時まで一日中働いた者と、夕方5時から一時間しか働かない者に、同じ1デナリの日当が支払われたという。12時間働いた者が怒ったのも当然だ。ところがオーナーの言い分は「私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか」(20:15)である。オーナー、つまり神は〝気前がいい〟。だからこそ神なのだろう。所詮人間の働きなど、神の悠久の時の流れの中では大した違いはない。大切なことはただ一つ。それはすべての人が、1デナリの神の救いを手にするため、ぶどう園という教会に招かれている。

一方「タラントの譬え」は真逆の教えだ。別人の思想としか思えないほど違う。社長が三人の社員に資本金を融資し、商売させる話だ。儲けの大きい社員は褒められ、儲けの無い者は厳しく叱責させる。5タラント預かった者は5タラント儲けて所得倍増、10タラントにした。2タラントの者も2タラント儲けて4にした。ところが、1タラント預かった者は(社長が怖い、怖い)で、(資本を減らさぬように)と考え、タラントを土の中に隠したという。社長の怒るまいことか。怠け者の僕から1タラントを取り上げ、10タラントの部下に与えられる。5対2対1の最終結果は、11対4対0。格差はいよいよ開いた。

二つの譬え話、一緒に、同時に読むと混乱するが、実は〝一緒に、同時に〟これが命綱だ。「神の恵み」と「人間の責任」、この二つが結び付いてこそ絶妙の真理が生まれる。この二つを別々にして分断すると、両方ともいびつになる。両方とも、真理であることを止めてしまう。「ぶどう園の譬え」にしても、この話ひとつだけをみるならば、悪用しようと思えばいくらでも悪用できる。何もしなくとも祝福されるのだ。怠けていても勤勉に働いた者と同じに祝福されるのだから、「タラントの譬え」なんかよりぶどう園で働く方が楽ちんに決まっている。逆にイエスが「タラントの譬え」しか語らないとしたら、信仰生活は弱肉強食、修羅の巷、戦場と同じである。イエスが二つの譬えを、同時に、ワンセットで語られた。「恵みによる救い」と「救いを頂いた人間の責任」、この二つが決して離れ離れにならない。1デナリの救いが与えられたのは神の恵みであり、その恵みに応えるため、与えられたタラント、賜物を十分に用いるのだ。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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